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芸術工学部・芸術工学研究科

芸術工学部・芸術工学研究科の歴史

芸術工学部設立の背景 (1970年代〜1994年9月)

 芸術工学部の前身は、名古屋市立女子短期大学(昭和25年(1950)4月に名古屋市立女子専門学校を母体に3学科で発足、以下「女子短大」)と名古屋市立保育短期大学(昭和28年(1953)4月に名古屋市立保健専門学園を母体に発足、以下「保健短大」)である。この2つの短大は、1970年代から4年制大学への移行を模索していたが実現せずにいた。
 4年制への具体的な動きは、昭和54年(1979)に女子短大が示した生活学部生活科学科の設置構想であった。また、 女子短大は、平成2年(1990)に保育短大を学部とする名古屋市立生活文化大学(仮称)設立を構想し、名古屋市に設置を要望した。この要望を受けて市は財団法人日本開発構想研究所に調査を依頼したが結果は否定的なもので、実現しなかった。そのため、両短大は平成3年(1991)に「四大化のための協議会」を設け、平成5年(1993)までに28回もの協議を重ね、4年制の新大学構想が合意に至った。一方、名古屋市立大学では、教養学部改組の全国的な動向を受け、大学改革の一環として国際系学部や基礎科学系学部の構想が進められていた。
 名古屋市が両短大の要望に速やかに応じたのは、昭和63年(1988)8月に「名古屋市新基本計画」(1988〜2000年)を作成し、市の高等教育機関である市立三大学について、「地域の学術・文化の中心となるよう、市立大学の学部増、女子短期大学・保育短期大学の四年制大学化、市立三大学の統合など、将来方向の検討を積極的にすすめる」と位置づけていたためであった。
 
 両短大の4年制大学化と市立大学の改革の構想を受け、竹内正名古屋市総務局長は、時代ニーズを取り込み、地域に根ざした大学にする改革を決めた。そして平成4年(1992)6月、名古屋大学第8代学長の飯島宗一(愛知芸術文化センター総長・名古屋大学名誉教授)を座長とする外部有識者による「大学の将来構想に関する懇談会」を設置した。その目的は「新基本構想に基づき、両短期大学を統合した四年制大学構想の検討を中心に、新しい時代にふさわしい市立大学のありかたについて、広く意見を交換する」ことであった。懇談会による5回の意見交換の成果は「提言」にまとめられ、平成5年(1993)4月5日に西尾武喜名古屋市長に提出された。この「提言」は、両短大を統合して4年制とするのが現実的であること、芸術工学系と人文社会系の学部の整備が適切であるとした上で、「より積極的には、整備構想のスケールアップと新世紀に向けて市民の期待にこたえるために、新基本計画にも述べられているごとく、三大学の統合を検討することが望ましい」とむすんだ。また、敷地については、「女子短期大学の現キャンパスを中心に、保育短期大学の現在地も有効に利用しての立地を妥当と考えるが、教育・研究機能の充実や街づくりのためにも可能ならば十分な広さを備えた単一のキャンパスに立地することを検討することが好ましい」とし、女子短大萱場キャンパスに集約することを提言した。このように、両短大の再編の2つの軸のひとつが芸術工学部設置にむすびつく。
ところで,「提言」が芸術工学系の学部の整備に言及し理由は大きく2つある。ひとつは「市制百周年の年には「世界デザイン博覧会」を成功させ、また、市議会において「デザイン都市宣言」を議決するなど、新鮮で魅力ある都市づくりを進めてきた」ことである。いまひとつは「デザインマインドが人間生活の幅広い分野において今後一層大切な視点になることや、名古屋市が「世界デザイン博覧会」以来、デザインを都市づくりの主要なテーマに取り入れ成功させてきていることをふまえ、これをさらに都市の風土にまで高める「デザイン」をキーワードに、完成と理性の両面を備えた次元の高い人材を養成する」ことであった。
世界デザイン博覧会とは、「人・夢・デザインー都市が奏でるシンフォニー」をテーマに、平成元年(1989)7月15日から11月26日までの約4ヵ月、名古屋城(中区)、白鳥(熱田区)、名古屋港(港区)の3つの会場で、14,184, 000人を集めた博覧会で、これを機にまちの景観が一新された。名古屋の戦災復興を特徴づけた幅員100mの公園道路である若宮大通に沿って走る名古屋高速高架下の整備は、そのひとつであった。また、平成3年(1991)にはまちづくり拠点として名古屋都市センターを設置し、平成8年(1996)を目標として国際デザインセンター創設に動いていた。
 そして、市は平成5年(1993)4月に大学設立準備室を、7月に短大と大学設立準備室による「統合・四年制大学準備検討委員会」を設置した。この委員会の最大のテーマは、3大学の同時統合で、「市立三大学の整備にかかる打ち合わせの会」と「教務学生」、「施設整備」、「図書・情報」の小委員会を設けて具体的に検討を進めた。議論の中心は「人間社会学部」と「人文学部」の再編で、9月には市立大学教養部も含めた「人文社会学部」への統合に合意し、11月の市立大学評議会で了承された。
 人文社会学部設置の合意を受け、市は10月に竹内正助役を委員長として、3大学の学長、市立大学教養学部と両短大の教員からなる「市立三大学の統合に関する整備委員会」を設置した。委員会では、各学部の設立準備委員会委員長の選考が行なわれ、人文社会学部に城戸毅、芸術工学部に柳澤忠を選出した。そして、平成6年(1994)6月に人文社会学部、 10月に芸術工学部の「設立準備委員会」が設置され、ここから慌ただしく詳細について議論し、申請作業を進めた。というのは、両学部の設置認可申請書類を平成7年(1995)4月に提出することになったからで、とりわけ芸術工学部の準備期間は約半年しかなかった。そもそも芸術工学部設立準備委員会の設置が人文社会学部に約4ヵ月遅れたのは、初代学部長となる設立準備委員会委員長の選出が難航したためである。大学統合準備室長であった粟野泰次はその状況を「時間切れ寸前といえる状況」や「大変難産だった」と表現し、実際に柳澤が市の都市景観賞選考の会議に参加しているときに、出張から帰宅したばかりの市立大学学長の伊東信行に電話をして駆けつけてもらい、説得したと回顧する。
 柳澤に白羽の矢が立ったのは、市立三大学の統合に関する整備委員会が芸術工学部を建築がベースの組織にするためであった。柳澤は、東京大学工学部建築学科卒業して同大学大学院に進み、「医療施設の地域計画に関する研究」で工学博士の学位を授与された建築の専門家で、民間企業勤務を経て東京大学助手を務めた。そして、名古屋大学工学部建築学科設立に尽力し、助教授、教授として教鞭をとり、芸術工学部設立準備委員就任時は愛知工業大学教授の職にあった。芸術工学部の研究と教育は「健康」と「都市景観」をキーワードに進むが、こうした経歴を持つ柳澤だからこそなせたコンセプト・メイキングであるといえる。
 なお、芸術工学部が現北千種キャンパスに設けられたのは、短大を女子短期大学萱場キャンパスに集約するという提言が影響したためと思われる。提言内容が3大学統合に引き継がれたのは、滝子キャンパスとの距離が理由であった。というのは、人文社会学部は母体となる教養学部のあった滝子キャンパスに設置されることが決定していたが、保育短大は尾張旭市にあり、移動に1時間半以上の時間を要するため、より近いキャンパスが選定されたのである。ちなみに、名古屋市の短大が隣接市にあったのは、定員増加で移転を計画した際、市内に適地がなかったためであった。