学部・研究科・附属病院の歴史

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人文社会学部・人間文化研究科

人文社会学部・人間文化研究科の歴史

コラム

人間科学科発足当時大切にしたこと

後藤 宗理

後藤 宗理

 人文社会学部開設の際に作成したパンフレットに、私は、学生の自己実現のお手伝いをするという趣旨のことを書きました。スタートしてから心がけたことは、以下の3つです。1つ目は、学生に多様な体験をさせたいこと。授業の一環として保育園見学をしました。非常勤先の他大学の学生や看護学部の小児看護学の学生も入った混成チームを組みました。2つ目は3年次編入学生にも丁寧に対応すること。保育士希望学生の時間割がほかの必修授業と重複した時には、特別クラスを開設して増コマで対応しました。3つ目は学生の声に耳を傾けること。懇談会を行ったり、授業の課題の一つとして「学長への手紙」を課し、入学時の期待、大学への要望などを書いてもらい、歴代の学長に届けました。伊東信行先生からは学内報で回答がありました。要望の1つはのちに教員免許取得の実現につながりました。

名古屋市立大学名誉教授
椙山女学園大学学長
後藤 宗理

名市短から人社へ そしてゼミのこと

有賀 克明

有賀 克明

 私は1981年に名古屋市立女子短期大学に職を得た。96年に名市大と統合して人文社会学部の一員となり、2013年に定年退職したから両者併存の1996年をダブルカウントすると、名市短に16年、名市大に17年とほぼ同期間、それぞれに在職していたことになる。
 大学院博士課程を修了したてで東京から出てきたばかりの33歳。「後期若齢者」独身男にとって名市短への赴任は、ようやく定職について禄を食むことができることになった安心と、女子学生ばかりのキャンパスへの恐怖心にも似た戸惑いとの間でなんとも複雑な心境であったが、それもすぐに慣れて当たり前の生活になった。名市大人文社会学部の発足で今度は本務校の教室に男子学生がいる風景に少々妙な違和感を覚えたものの、やがてそれはここちよい緊張感にとって代わり、すぐに日常の姿としてとくになにも感じなくなった。
 人社は文系学部ということで、理系分野に強い学生が少ないのはまあやむを得ない。しかし、自然や自然科学に関する基礎知識をせめて教養として持ち合わせていてほしいものだが、それが存外難しいらしい。自然科学教育の内容研究を専門領域とする私は教養科目のなかに「人間形成と自然認識」という授業を仕込んだ。人間はいかなる意味で自然の一員であるというのか。その自然を対象とした認識活動が、ひるがえって人間にいかなる反作用を及ぼすのか。。。まあ、小難しくいうとそんな話を基本に置いて、自然を科学的に認識することの意味を、そうでない場合との比較で論じたものだ。日常生活の中で感情や主観や周りから流れ込む情報ばかりをたよりに選択や判断をすることの危険を知ってもほしかったし、科学は万能じゃありませんなどと悟ったように言う前に、科学とはなにで、科学的に考えるとはどういうことかを経験してほしかった。それ以前に、科学と科学技術をほとんど区別せずに議論して怪しまない世の中の奇妙さに批判意識をもってもらいたかった。
 しかし、「科学ではそう説明しているようですがわたしはたとえ迷信と言われようとこっちの見方のほうが好きですねえ」などと言い張る学生ももちろんいて、そうなると腕相撲で手首返しをされているようなものだから、ついに決着をつけることを諦めることもあった。もっともこういう学生は、中学生の頃に憶えたフレミングの左手がどうしたとか右ねじがひっくり返ったとかいう「物理法則」を述べ立てる割に電気力線と磁力線の区別もつかずしたがって電磁誘導作用の理解も皆無な人々よりはよほどましな気がする。実際、私のゼミに入ってきた学生の大半は前者の類いが少なくなく、議論していてもおもしろかった。
 ゼミと言えば、卒論は原則として2万字以上とか、提出締切をクリスマスイブの日にするとか、けっこううるさく言っていたが、それはそれで学生たちはよく応じてくれた。楽しかるべき正月休みを卒論で真っ暗にさせるのは忍びないし、私も貴重な冬休みを台無しにされるのは御免こうむりたかったので、まあ利害が一致していたのだと思う。そこへいくと(これは余談になるが)大学院生はなかなかしぶとくて、こちらの都合も能力もお構いなしにのべつまくなしに指導を求めてくる。学部生以上に研究領域は広汎に渡るし、もちろん研究水準は私も手に負いかねるほど高い場合もあるから四苦八苦で指導した。その甲斐あって、研究者となって現在大学などで教鞭をとる者は4名いてそれぞれに活躍しているようだ。
 ゼミではてんでんばらばらの卒研テーマを抱える学生たちとよく学び、議論をしたが、それ以上になにかにつけて遊ぶことも多かった。ゼミ旅行は2泊ほどで毎年どこかに出かけたし、そもそも演習の時間にはかならずお茶とお菓子がつきものだった。それもみんなでゼミ費を出し合いマンジュウのようなうまい菓子を当番が用意しなくてはならない。残る金は積み立ててゼミ旅行の足しにした。誰かの誕生月にはゼミ冒頭に誕生日プレゼントでお祝いしたり、クリスマス会と称してアルコール抜きの飲み会とプレゼント交換のパーティを催したりと、小学生顔負けの、明るくて清く正しい遊び方をしたものだ。
 そんな中であげておきたい思い出の一つは96年入学の学部1期生のゼミのことである。そもそも学部立ち上げの初年度の学生は学部認可のスケジュール上、センター入試の関門を素通りですんでいる。そのせいかどうか確証はないが、1期生は個性派ぞろい。型にはまらない面白いのが多いというのが人間科学科の教員たちの間ではもっぱらの見方だった。たしかに私のゼミでも能力も個性も人柄も太鼓判を押せる粒ぞろいだった。もちろんゼミでの議論も毎回楽しく、時間はあっという間に過ぎた。そして人数は少なかったが私も同行したゼミ卒業旅行で歩いたパリのあの場所この場所は、今も鮮明に蘇る。

名古屋市立大学名誉教授
伊那市立高遠町歴史博物館館長
有賀 克明

現代社会学科「主任」をつとめて

 現代社会学科の初代「主任」となったが、最初は戸惑うことばかりだった。学部棟は建設中であり、学科メンバーは仮研究室に分散していた。学部棟が完成して、6階に会議室と資料室ができて、やっと学科としての「まとまり」を実感できた。毎週のように学科会議を開いて、学科の運営などを決めていった。主任としては、学科としてのアイデンティティをつくるのに苦労した。備品の購入、他学科との調整など、創設時に特有な「しごと」が多くあった。
 現代社会学科の人材養成の目的は、10年ほど前に書いたレポートによると、「現代社会の諸問題を的確に認識し、複数の学問分野の知見に基づいて、自らその解決方法を考察することのできる人材」などとある。専門分野を異にする教員により、理論と歴史、政策について、人文社会の諸分野の講義が行われた。学科の「看板講義」の一つが社会調査実習だ。1年近くかけて調査して報告書を刊行するハードな講義である。会議室には、調査実習の報告書が並べられていた。私も担当して、大学近くの滝子商店街や博物館前商店街などを調査した。滝子調査は地元のケーブルテレビでも放映された。 
 学科1期生は元気のいい学生が多かった。ゼミナールを含め、学生と教員のつながりは深かった。3年次編入という制度により、年齢も異なる多様な学生で構成されたことも、学科の特色だと思う。もう一つ印象に残るのが問題認識特別講義である。市役所や民間企業などで活躍されている人を招き、現代社会の諸問題を学生に問題提起する講義だ。私も出席して多くのことを学んだ。講義を数年にわたり担当した山田雅雄・名古屋市副市長が「これからのまちづくりに求められる能力は調整です。それに最も応えられる学問は、都市計画でも土木でも法律でもなく、社会学であると思います」と、学部案内にコメントされたことを思い起こす。現代社会学科の持続的発展を期待したい。

名古屋市立大学名誉教授
山田 明

国際文化学科発足時の思い出

島根 国士

島根 国士

 国際文化学科の最初の学科会議(正式にはその準備会議だったかも知れないが)で、私は意外にも学科主任に選出された。私以外の教員は全て賛成で、全く抵抗出来なかった。民主主義の「数の暴力」だと思ったが、決定には従わざるを得ない。新参者の私をこうして新学科の主任に選んだ先生方が全面的に協力して下さることを信じて疑わなかった。
 学科の理念とカリキュラムは既に出来上がっていたので、私のする仕事は楽だった。
 これに先立つ一年間私は旧教養部の教員として過ごし、専門学部・学科と異なる点をいくつか感じていた。最も大きな相違は所属学生の有無だ。これが両組織の雰囲気が異なる原因だろう。専門学科の教員は学科意識が強く、所属の学生との関わり方も密接だ。教養部にはこの一体感が薄いように感じられた。
 そこで学科発足のために二つのことを考えた。その一つは学科会議を頻繁に開き(月二回)、教員が顔を合わせ話し合う機会を多くすることで、学科としての連帯感を醸成すること。もう一つは、学科名となった、当時はまだ珍しかった「国際文化」という分野の研究教育の範囲と学科の特徴を示す「旗印」を掲げることだった。当時の国際情勢に触発された多文化共生を基本とする国際文化学を具体的に分かりやすく示すのが目的だった。旗印は『国際文化学への招待』という題名で単行本として出版された。私は初めにこの企画の主旨を提案しただけで、他に何もしなかったが、学科の総意として、またそれぞれに関わる先生方の努力で実現したものだ。
 その他のことは時と共に有機的にそして自然に進展していくだろう。これが当時私の抱いた期待であり、見通しだった。
 学科主任の任務は最短期間の二年で勘弁して頂き、私などより遥かに有能な先生に継いで頂いた。
 よい同僚・学生に恵まれて過ごした大学人としての最後の名古屋市立大学での十年間は忘れ難い。深く感謝している。

名古屋市立大学名誉教授
島根 国士

中高教職課程の歩み

宮田 学

宮田 学

 人文社会学部に教職課程が設けられたのは、2006年4月のことです。人間科学科(現心理教育学科)には、名古屋市立保育短期大学からの伝統を引き継いだ幼稚園教諭の課程がありましたが、名古屋市立大学には中学校・高等学校の教職課程はありませんでした。なかったものを立ち上げるのは大変なことでしたが、各方面よりのご助言・ご援助を受け、文部科学省の認可を得ることができました。
 こうして、現代社会学科で中学校の「社会科」と高等学校の「地理歴史科」または「公民科」、国際文化学科で中学校および高等学校の「外国語科(英語)」の一種免許を取得することが可能となり、資格支援部会の中に担当者を置いて、ガイダンス用資料、介護等体験実習および教育実習の手引きなどを作成するとともに、学生たちの指導にあたりました。

 2010年3月には、愛知県教育委員会より初めて10名の学生に教員免許状が交付され、中学校や高等学校に教員を送り出すことができたのです。

名古屋市立大学名誉教授
宮田 学

社会調査実習について

 現代社会学科では、2年生のメイン科目の一つとして社会調査実習が位置づけられている。この科目では、他の多くの科目(座学)と異なり、学生たちは教室で社会調査法の授業で学んだ調査方法を用いながら、①調査のテーマ、②調査の実施、③収集したデータの分析、④発表、⑤報告書の作成までのプロセスを、担当教員の助言はあるものの、あくまで学生たちが共同して主体的に取り組むことが期待される。さらに調査結果の発表の場として、毎年名古屋大学など東海地方の他大学とともに合同報告会(インターカレッジ)を開催している。
 経験科学としての社会学は理論を重視する学問であることは言うまでもないが、その理論もあくまで経験的事実に基づいたものでなければならない。先行研究の文献を丹念に読み込み、統計的データの分析をすることは言うまでもないが、そこにとどまることなく、自分の目と足を使って実際に調査対象地(フィールド)に出かけていって、現地の人々からのヒアリングや質問紙調査などを行うことで、教室の講義や教科書では触れることのできないリアルな社会問題に直接触れることでパークのいう「本当の調査」の経験を積むことが何よりも重視される。
 20世紀初頭のシカゴ学派を代表する都市社会学者ロバート・パークは、学生たちに向かって次のように語りかけている。「出かけて、豪華なホテルのラウンジに、簡易宿泊所の玄関口に座ってみたまえ。ゴールド・コーストのベンチに、スラムの寝床に座ってみたまえ。オーケストラホールや、スター・アンド・ガーター劇場のバーレスクの客席にも座ってみたまえ。要するに、出かけて、本当の調査をやって、自分のズボンの尻を汚して来いということだ。」そうすることで教室の講義や教科書では触れることができない社会の現場で起きている問題に触れることができるというわけだ。
 筆者が担当した社会調査実習では、学生たちは豊田市の保見団地を調査対象地(フィールド)として選び、学生同士で課題や作業を共有しながら毎年熱心に取り組んでいた。この公営団地には1980年代から日系ブラジル人をはじめとする南米からの外国籍住民が集住していることで全国的に有名になっていた。同団地内には二つの公立小学校と一つの公立中学校があり、そこには多くの外国籍児童生徒が通学していたが、ことば・習慣・文化の違いが原因で日本人生徒によるいじめにあったり、勉強についていけなくて不就学になった外国籍の子どもたちがいた。これら不就学の子どもや、親の日本語学習を支援するためにいくつかのNPO法人が設立され、そこでは主婦や学生がボランティアとして外国籍住民の支援活動を行っており、現在もその活動は地道に続けられている。
 社会調査実習の学生たちは、上記のNPO法人の一つ「ゆめの木教室」に毎週のように通って、外国籍の子どもたちに「先生」として宿題を教えてあげるだけでなく、「お兄さん・お姉さん」として遊び相手なったり、悩みの相談にのってあげたりしながら、子どもたちが抱えている学習面での困難や生活問題について共に悩み考えることで、自分自身が人間的にも成長していくことになる。社会調査実習を通じて得たこのような経験は、かれらの卒業後の人生にとっても貴重な経験となるものと信じている。

名古屋市立大学名誉教授
村井 忠政

先生にインタビュー 安川悦子先生に直撃(『現写』創刊準備号より)

安川先生に直撃インタビュー

名古屋市立大学名誉教授
元名古屋市立女子短期大学学長
元福山市立女子短期大学学長
安川 悦子先生

国際文化学科海外フィールドワーク

 国際文化学科では教員が学生とともに海外でフィールドワークを行う授業を開講してきた。この授業は2011年から2018年までは「海外学外研修」という授業名であったが、2019年からは「海外フィールドワーク」という授業名となり、国際文化学科のみならず心理教育学科、現代社会学科の学生も受講できる科目となった。
 この授業は2011年にインドネシア、2012年にイタリア、2013年、2014年、2015年に台湾、2016年、2017年、2018年、2019年にはマレーシアで行った。いずれのフィールドワークでも一週間程度から場合によっては数週間、教員と受講生が特定のフィールドを訪れ、基本的に外国語を使用して現地調査を行い、その成果に基づいて報告書を作成してきた。
 現在、この授業を担当している教員(市川)は2016年度から2019年度にかけての4年間、マレーシア、ペナン島のジョージタウンという地域をフィールドとし、毎年夏季休業中に学生とともに滞在し、フィールドワークを行うという授業を行っている。ジョージタウンは2008年にUNESCO世界文化遺産に登録された。ジョージタウンは18世紀のイギリスによる植民地化とそれに伴うコロニアル様式建築物やイギリス式教会等の存在、植民地労働力として移住してきた中国系、インド系住民のコミュニティや生活様式、ペナン島に古くから居住するマレー人の伝統的な生活やイスラム建築、そして「東洋の真珠」とも呼ばれるリゾート地といった様々な観光資源の存在により、急速に観光地化している。この授業ではこのペナン島の多民族・多文化状態が、UNESCO世界文化遺産登録を契機とし、地域住民にいかなる影響を与えているのかを共通テーマとしてフィールドワーク調査を行ってきた。
 この授業は2019年度からは一年生からの受講が可能となり、さらに国際文化学科の学生のみならず、人文社会学部の他学科の学生に対しても開講している。そのため受講生の中にはこの授業への参加が初めての海外渡航である者も存在する。さらには、いわゆるメジャーな観光地ではなく、むしろ学生一人では訪問しない・できないような地域を訪問することで、軽いカルチャーショックを受ける学生もしばしばみられる。
 しかしながら学部生の比較的早い時期に、ありきたりの海外旅行では得られない異文化体験をすることは、座学で得た知識の理解を現場で深め、同時に現場で得た問題意識を発展させることによりモチベーションをもって座学に臨む、という、座学と現場の有機的な接続を可能にする。実際、本授業に参加することにより、フィールドワークは理論的な裏付けがなければ意味がないこと、理論的な学習の意味はフィールドで検証できること、世界には「コミュニケーション・ツール」として様々な英語があること、多文化共生や異文化理解にも様々な形態があり、簡単にできるものではないこと、逆にだからこそ、大学における多文化共生や異文化理解の学習・研究は重要であること、を多くの受講生は理解している。
 海外でのフィールドワークという、このような授業は、ともすれば安易な校外学習の外国版のように見なされがちである。しかしながら、「楽で楽しい」研修ではない、むしろ「過酷で厳しい」研修を終えた受講生たちが見せる知的かつ体力的な逞しさは、フィールドワーク系の授業の大きな教育的な成果だということができる。

人間文化研究科准教授
市川 哲

課題研究「多文化共生」(大学院ゼミ)の思い出

 1996年4月に発足した人文社会学部の完成年度を迎えて一息つく間もなく、私たちを待ち受けていたのは大学院修士課程の設置という次なる課題だった。学際的色彩のきわめて濃い3学科からなる人文社会学部の上にどのような大学院を載せたらよいのか、慣れない課題にあれこれ苦慮したことを思い出す。議論の末に導き出された結論は、伝統的な狭い学問分野(ディシプリン)にこだわることなく、学際的であることをあえてポジティブなものとしてとらえ、それが活かされるようなカリキュラムの構築をめざすべきではないかというものであった。その結果生まれたのが本研究科教育課程の大きな特色の一つである課題研究科目であった。これは人間文化に関する各々の問題意識をもって参加する学生と教員(研究指導を主に担当する教員を含めた複数の教員)との共同研究(プロジェクト研究)方式により進められ、修士課程の教育の中心となる科目である。
 筆者(村井)が担当した課題研究は「多文化共生」に関する研究であった。このプロジェクトの指導教員は、野村直樹教授(文化人類学)、新井透教授(アメリカ文学)、そして村井(社会学)で構成され、それぞれの教員の指導下にある院生たちがこれに参加していた。課題研究「多文化共生」には、名市大の現役院生・社会人院生のほかに、日系ブラジル人、イタリア系フランス人、中国人留学生も参加していた。このほか名古屋大学や県立大学など他大学の大学院に籍を置く受講生や教員もゲストとして多数参加しており、文字通り開かれた知的交流の場になっていた。今から振り返るとまさに多文化共生研究会のような様相を呈していたわけで、筆者自身指導教員であると同時に、院生諸君や若手研究者から知的刺激を受けたことは言うに及ばず、とりわけ外国人留学生やNPOの活動家として外国籍住民に接している方などから多くのことを学ばせていただく機会となった。このように外国籍住民との共生問題に取り組んでいる院生や北米(合衆国・カナダ)日系移民のエスニシティ研究に関心をもつ若手研究者たちが「多文化共生」ゼミに集まってきた理由の一つは、当時東海地方の他大学の大学院には「多文化共生」の講座や指導教員がまだ極めて限られていたという事情もあったと思われる。
 2002年7月にはこのゼミの参加者が中心となって「名古屋多文化共生研究会」が立ちあげられることになった。この研究会はおよそ会員100名を擁する事実上の学会として発展を遂げ、2003年12月には『多文化共生研究年報』創刊号が刊行されている。東海地方の大学には「多文化共生」を研究テーマにする若手の研究者が出てきていたが、多文化共生関連の研究会および機関誌(研究年報)が未だ存在していなかったため、かれらに研究交流の場とその研究成果を発表する媒体を提供することになったのである。
 筆者が2007年3月に定年退官する時期に合わせて、退官記念論文集の企画がゼミの参加者たちのあいだで持ち上がり、2007年4月に『トランスナショナル・アイデンティティと多文化共生――グローバル時代の日系人――』が明石書店から刊行される運びとなった。本書はたんなる「論文集」とは異なり、数年に及ぶ大学院ゼミでの新進気鋭の若手研究者たちによる意欲的な報告や討論を積み重ねるなかで結実した研究の成果である。35年に及ぶ筆者の研究生活のなかでも、毎週月曜日午後6時から9時までの演習は極めて充実した自由闊達な議論の場であった。このような時間を若い研究者諸君と共有できたことは研究者冥利に尽きるといえる。

名古屋市立大学名誉教授
村井 忠政

三浦義章先生の思い出

 三浦義明先生は私にとって兄貴のような存在でした。赴任時に英語担当教員の中で年齢が一番近かったということもあり、なにかあれば最初に相談にのってもらえる先生でした。教養部で5年、人文社会学部で12年半ご一緒させてもらいました。教授会のある日はほとんど毎回二人で夕食に出かけ色々な話をしました。三浦先生は18世紀英国小説が専門でしたが、私は文学のことはまったくわからず、三浦先生の研究のことはほとんど話を聞くことはなく、いつも自分の研究のことを一方的に聞いてもらっていました。私は英語の冠詞を研究しているので、自分にとって面白い用例に出会うとメモしておいて、レストランで注文を済ますとすぐ「三浦先生ならここにtheとaのどちらを入れますか?」などと質問したのですが、三浦先生の正解率はこちらがいやになるほど高く、よく落ち込んで帰りました。留学もしていないのにどうやってネイティブのような語感をもてるようになるのか最初は不思議に思いましたが、膨大な読書量のおかげであることを知り、遅ればせながら自分もとにかく大量に読まねばと思いました。今振り返ってみると、三浦先生でも悩む語法をひとつの判断基準にして用例集めを必死にしていたのかもしれないと思います。人文社会学部創設1年目の夏休みを前に国際文化学科の教員が学生用に作成した『読書案内』も忘れられない思い出です。各教員が夏休みに読んで欲しい本を推薦する企画でしたが、三浦先生はX, Y, Zと3冊名前を挙げて、Xは非常に面白い本だがみんなには少し難しいもしれない、Yはまだ少し早いかもしれない、Zは問題外でまだ絶対に読んではいけない、というような趣旨の案内をされ、さすが三浦先生と思ったことを今でも忘れられません。

人間文化研究科教授
日木 満

石川洋明教授の思い出

 石川洋明先生(以下、「石川さん」と呼ばせていただく)とは、名古屋市立大学の人文社会学部が誕生した時から、同僚教員として親しく交流させていただいた。石川さんは1959年1月東京都の生まれで、男ばかり4人兄弟の2番目として育ち、東京教育大学付属高等学校を経て東京大学文科Ⅱ類に進学した。東大では後期課程も教養学部に進み、広く文科系の諸学を学んで、社会学のゼミで卒業論文を書いた。石川さんはよくこの教養学部時代の話を私にしてくれた。その後、大学院は社会学研究科に進学し、修士課程、そして博士課程と吉田民人先生のもとで社会学を学んだ。石川さんはこの頃のこともよく話をしてくれた。先生が懐の広い大人物だったこと。大学院ゼミの先輩、同期、後輩に優秀な学者の卵がずらりといて、ゼミでの議論が毎回白熱したことなどである。
 私も東京の生まれ育ちだが、石川さんとはじめて出会ったのは名古屋である。石川さんと私は同期の着任で、同期といっても、彼は名古屋市立保育短期大学(保短)、私は名古屋市立女子短期大学(名市短)に採用されたから、同じ名古屋市立でも勤める短期大学は別々だった。1990年4月のことである。私が赴任した名市短は、その頃、四年制大学化と三大学統合の課題をかかえていた。私が応募した人事の公募書類には四年制大学化が予定されていることや、新学部での担当予定科目とおぼしきものが書かれていた。私たちは、着任後まもなく、両短大の統合・四年制大学化についての会議で顔を合わせるようになった。
 やがて、1996年、名古屋市立大学に人文社会学部が発足し、私たちは同じ学部の同僚になった。新しい学部をどのようなものに作り上げていくか、私たちは手探りの中でともに歩んだ。二人とも現代社会学科の所属だった。基礎科目や基幹科目や展開科目のあり方、社会調査実習のあり方、ゼミや卒論のあり方、入試のあり方、大学院のあり方、学際とは何かなどについて議論したことが今ではとてもなつかしく、昨日のことのように思い出される。新しい学部の姿について構成員たちにはそれぞれの夢があり、石川さんもその一つ一つに強い信念とこだわりを持っていた。
 学部・研究科の会議のあとで、私はよく石川研究室に行って感想や意見を言い、思い悩むことがあると石川さんに相談した。研究室は隣同士だった。石川さんは私の話をとても丁寧に聞いてくれた。そして、あれこれと意見を表明してくれた。石川さんの意見だから、理屈っぽいし、原理・原則を設定して、その原理に軸足をおいて考察するとどういう帰結になるだろうかという論法の話が多かったように思う。私は、石川論に教えられ、納得させられることが少なくなかったが、なかなか納得できずに言い返すこともあった。私は、原理・原則よりも現実の状況の説明に時間を使ったように思う。
 いつしか、午後5時~6時頃になると、石川さんが自慢のコーヒーをいれてくれて、四方山話をして休憩するのが日課のようになった。コーヒーを飲みながら、私は自分の研究や本の出版のことで石川さんの意見を聞くことがあった。石川さんは、その原稿は引き受けなくてもいいんじゃないのとか、その企画は面白そうだから是非引き受けて前に進めたらいいとか、アドバイスとエールを送ってくれた。
 石川さんも私にいろいろな話をした。彼が専門とする、いじめ問題、アルコール中毒、虐待、アダルト・チルドレン、DV、共依存のことなどなど。石川さんが現代社会のかかえる問題という角度から自説を展開すると、私は歴史学の立場から、「現代」だけでなくて昔からあるんじゃないの、説話集や物語に虐待やいじめの話がたくさん出てくるからなどと述べて、歴史的考察の必要性を説いたりした。また、専門は違うけれど、調査とは何か、実証とは何なのかという研究の方法論の話になったりした。石川さんは国際学会の活動に熱心で、毎回のようにInternational Congress on Child Abuse and Neglectに参加して、研究発表をしていた。帰国すると、その会議の話になり、あるいは訪れた中国の西安や南アフリカなどの話になったりした。石川さんは、虐待の問題を国際的視座のもとで考察する必要があると考えており、日本の学会よりもむしろ国際学会における研究の進展に期待していたように思う。
 石川さんはご家族についての悩みをかかえていて、コーヒーを飲みながらの話にしだいにご家族の話が増えていった。ある日、石川さんから話があると言われ、病気のことを打ち明けられた。前立腺癌のステージ4で骨に転移があること、抗癌剤の相性がよかったこと、奥様の心の健康状態がかんばしくなく、不安定な状態にあることなどであった。石川さんは全力で病気と闘った。幸いなことに、病気の進行は高度な医療によってゆるやかなものに抑えられており、通院しながら勤務を続けることができた。石川さんの仕事に対する熱意はいささかも衰えることなく、熱心に講義の準備をし、論文指導を行なっていた。また、これまでの研究をまとめるような研究書あるいはそれに代わる著書を作成したいと考えていた。
 しかし、やがてご子息を亡くす悲しい事件が起こり、石川さんは病気をかかえながら、憔悴の中で多忙な日々を過ごした。それからしばらくすると、石川さんは学内で歩行がままならなくなってしまい、同僚教員の助けによってその日は何とか帰宅したものの、翌朝足が動かなくなって緊急入院となった。変形した骨が神経を圧迫したことによるものだった。だが、石川さんの命の炎は驚異的な精神力によって灯り続けた。治療はうまくいき、栄養状態など全身状態も安定し、リハビリが順調に進んで、本人の強い希望によって退院となった。歩けなくなった石川さんは、車椅子を自ら操作して講義、演習に復帰した。車椅子で教室に向かい続け、執念のように社会学を語り、学生たちの脳裏に病とともに生きる一人の人間の姿を焼き付けた。
 2014年6月27日(金)、石川さんは講義終了後しばらくして気分がすぐれないから保健室に行って休みたいと言う。私は車椅子を押して保健室に同道し、石川さんはベッドでしばらく横になっていたが、素人目にも状態がよくない。主治医の郡健二郎学長(腎泌尿器科)の指示があって再度の入院となった。着の身着のままの入院だったので、翌28日(土)、石川さんの自宅マンションからパジャマ・下着などの着替えを持って病室に届けた。この日はまだ体力が残っており、石川さんの話ぶりもいつもとあまり変わらないように思われた。翌29日(日)、石川さんが好きだった水羊羹(歯を失っても食べることができる)を持って病室に行き、しばらく話をしていたが、この日はとても苦しそうで、心臓の不調を医師に訴えていた。翌6月30日(月)早朝、石川さんは息を引き取った。
 石川さんの最後の論文は「私の障害学」と題するもので、名古屋市立大学大学院人間文化研究科『人間文化研究』22号に掲載されている。これは車椅子生活になってから書かれたもので、亡くなった病室に赤の入らないままのゲラ刷りが置かれていた。これから校正作業を行なう予定だったものと思われる。同じ号に吉田一彦作成「石川洋明教授年譜・主要著作目録」が載る。
 石川さんの葬儀はカトリック平針教会で行なわれ、遺骨はご家族の遺骨とともに同教会にしばらく仮安置されていたが、東京のご遺族により故郷に戻り、現在は墓所となった日蓮宗正定山幸國寺(東京都新宿区原町2‐20)内の瑠璃殿に納められている。

人間文化研究科教授
吉田 一彦

滝村雅人先生の思い出

 私吉村が、名古屋市立大学人文社会学部に着任したのは、1999年4月からである
 学部発足4年目で、滝村先生は、すでに保育短期大学の頃から着任しておられた。
 いつだったか、山の畑キャンパスの食堂で行われた学部の懇親会で、歳が4つ違うというのが分かった。はじめてお会いしたのが99年と思っていたが、当時私が勤務していた同朋大学で開催された日本社会福祉学会の大会に同僚の安達先生と来ておられたのをその後お聞きした。私の研究室は5階であり滝村先生のは4階にあり、そんなにしばしばお会いしなかった。私は保母課程の社会福祉論を担当したが、先生は保育実習担当者として忙しくおられたように思う。言葉を交わすようになったのは、卒論の口頭試問で先生の指導学生の副査を担当するようになってからである。先生の研究方法論として歴史研究が不可欠だったので私にとってもなじみのあるものであった。
 その後、学部が社会福祉士対応するということで、実習をはじめ担当科目の件でよく打ち合わせをする機会が多くなった。その前後とかに話す機会が多くなったと思う。氏の博士論文の指導教官と話がつかず、未提出に終わったことを聞いたのもその折だったように思う。
 その後順調にいけば、今頃は氏の後任人事の話題になっていた頃であろうか。

名古屋市立大学名誉教授
吉村 公夫

小林かおりさんの研究室

 アジアのシェイクスピア演劇の受容についての研究をしていた小林かおりさんは、とても華やかで明るい方だった。国際文化学科は女子学生が多く、教員も例外は多少いてもすてきな女性教員が多いが、その中でも小林ゼミは別格の華やかさだと評判であった。カフェのようなインテリアの研究室でのゼミはお茶会のようで、毎週ゼミのときに何を着ていくかが楽しみで、と笑っていた。学生がかわいくて仕方ない、といつも言っていた小林さんは、授業にも演劇の要素を取り入れたり、シンガポールなどアジアの大学と結んでの海外とのオンライン合ゼミをやっていたりと、学生にとって楽しくも刺激的な教育を常に模索していた。
 研究室はいつもドアがあいていて、誰でも歓迎だったので、私はしょっちゅう遊びに行って、お茶をいただいたりしていた。周囲の人の様子をいつも気遣って、励ましたりフォローしてくれたりする一方で、言うべきは言うお姉さん気質な人で、なかなかの酒豪でもあった。一緒に飲みに行くこともよくあり、二人とも見事に記憶を飛ばすくらい飲んでしまったこともある。
 あまりに急にお亡くなりになった後、研究室の整理を手伝った。大学院時代にイギリスに留学していた際の研究ノートがきれいに並べられ、国内外の演劇上演に通って購入した大量のパンフレットもすべて残してあった。パンフレットは貴重な記録だから、と、演劇研究の方が引き取ってくださった。
 いつもとてもおしゃれで、派手な色の服を着ていても、持っている小物は穏やかなモスグリーンで揃えていた。亡くなる直前まで一緒に科研の出張をしていた、という友人である共同研究者の方も研究室に来てくださったが、旅行先でその方と色違いのお揃いで買ったというモスグリーンの小さな布製のバッグが、研究室に遺されていた。それをいただいて、今も大事に持っている。

人間文化研究科准教授
佐野 直子