学部・研究科・附属病院の歴史

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医学部・医学研究科

医学部・医学研究科の歴史

医学部75年の歴史の幕開けと桜山(川澄)キャンパスの成り立ち

黒野 幸久
瑞友会会長
山本 喜通
(昭和51年卒)

黒野 幸久
瑞友会会長
山本 喜通
(昭和51年卒)

 私の入学は1970(昭和45)年4月である。当時の医学部入学定員は60名で、実際の同期入学生は63名だったと記憶している。医学部のある桜山キャンパス(数年前まで川澄キャンパスと呼ばれていた)にはその3年半前に真新しい病院が開院したばかりで、名古屋高等商業学校・名古屋大学経済学部から引き継いだ古い建物もいくつか残っており、実際それらは事務局や図書館として使われていた。また、瑞穂通沿い北端には剣陵会館と呼ばれた名古屋高等商業学校の学生会館・同窓会館もあって、桜山キャンパスが名古屋高等商業学校・名古屋大学経済学部の跡地であることが新入生の目にも明らかであった。時は流れ、今日ではそれら過去の痕跡はすべて取り払われてしまった。それとともに、医学部が桜山キャンパスに移るまでの歴史が、先人が用地取得に払った多大な努力とともに忘れ去られようとしている。名古屋市立女子高等医学専門学校の設立から75周年を迎え、今一度その設立に至った経緯と、桜山キャンパス取得までの歴史について振り返ってみようと思う。本項は、大学創生期に事務局長を務められた大波多廣文氏へのインタビューをもとに、同氏から提供された資料などを参考として構成された。内容に誤認などがあれば、それはすべて筆者の責に帰すものである。なお、肩書きはすべて当時のものである。

参考資料

  • 名古屋市立大学医学部創立40周年記念誌(名古屋市立大学医学部同窓会編)
  • 名古屋市立大学50年の歩み(名古屋市立大学編)
  • 名市大新聞1954(昭和29)年11月3日「基礎医学の殿堂は何處へ」(学生新聞)
  • 名市大新聞1955(昭和30)年2月25日「基礎館はいつ建つか」(学生新聞)
  • 名古屋大学キャンパスの歴史1(学部編)(名大史ブックレット2、神谷智著)

 

75年前、女子医専設立の本当の理由―すべては苦肉の策から始まった―

 戦争をしている国は、その国のあらゆる財を国の統治下に置こうとする。戦時下、1942(昭和17)年に制定された国民医療法に基づいて同年に日本医療団が設立され、名古屋市民病院(戸谷銀三郎院長)がこの医療団に現物出資により統合されそうになった。これを避ける方策について、同院を管轄する名古屋市厚生局長の山口静夫氏は恩師である京都帝国大学医学部衛生学教授戸田正三氏(後に二代目日本医療団総裁となる)に相談した。戸田氏は医師養成の社会的要請を理由として、女子の医学専門学校を作って市民病院をその附属病院にすれば、国の管轄が文部省に移って厚生省には手が出せなくなるという秘策を伝授した。女子としたのは、当時、男子医専は認可されなかったためである。その策について山口氏は佐藤正俊市長、塚本三市会議長と協議し、名古屋市立女子高等医学専門学校(5年制)の設立が1942(昭和17)年11月の市議会で承認され、1943(昭和18)年4月1日に開校した。これに伴い、名古屋市民病院は名古屋市立女子高等医学専門学校附属医院と改称され、戸谷銀三郎氏が校長と院長を兼任した。戦後、戸谷校長の先見性と尽力により、1947(昭和22)年に予科3年を含む名古屋市立女子医科大学(旧制)が設立され、これが1950(昭和25)年4月1日の名古屋市立大学創立に繋がっていく。

桜山キャンパス取得秘話―そこは国有地だった―

 桜山キャンパスにあった国立の名古屋高等商業学校(名高商)は戦時下の1944(昭和19)年に名古屋経済専門学校(名経専)および名古屋工業経営専門学校となり、このうち名経専が1948(昭和23)年に名古屋大学法経学部経済・経営学科となった。ちなみに、同学部法律・政治学科は名城キャンパス(名古屋城内)に置かれていた。1950(昭和25)年には法経学部が法学部(名城キャンパス)と経済学部(桜山キャンパス)に分割された。名古屋大学はこうしたタコ足状態を解消するため、桜山キャンパスを始め名古屋市内およびその近郊に点在するキャンパスの土地、建物を売却し、その資金で各学部を東山キャンパスに移転する事を計画した。それを受けて名古屋市は1954(昭和29)年10月26日に開かれた愛知都市計画審議会に、名古屋大学の集中計画を特別都市計画事業として申請した。この計画は当時工、理学部のある千種区不老町の16万坪を中心に、南側に隣接した7万坪の土地を取得して合計23万坪を同大学敷地に充て、そこに医学部を除く法、文、経済、教育、農各学部、教養部、研究室、講堂、図書館、体育館、グランド、寄宿舎を集めるもので、経費は約30億円、完成見込は1957(昭和32)年の予定であった。この計画の実現には名古屋大学が発案した建築交換移転という手法がとられた。これは各キャンパスの土地・建物を譲渡する代わりに、譲渡先の負担で東山キャンパスに新しい学舎を建設してもらう方法であった。

名大経済学部長四方博教授談
(1955(昭和30)年2月25日付け)

 学部移転は資金の出来次第、今後短期間に行われる。目下移転先地所有者との交渉が行われているが、解決には幾分の時日を要する。移転資金は土地及び建物の売却による。当方の希望する資金を満足させ得る所に売るが、土地の分割売却には反対で、成るべくは全域を学府として使用される様希望する。買手について二三の話があるが具体的なものではない。現在地で不自由を感ずる事は経済学部と法学部間の講座の分散である。関係図書についても総合した図書館及び設備の必要を強く感じて居る。故に早期に各学部総合学園を望んでいる。理科系学部の移転に次いで行われる文科系名学部の移転では経済学部が最も早い筈だ。

―基礎と臨床が離れていては一人前の医学部じゃない―

 1954(昭和29)年、名古屋市立大学は文部省に対し、大学院医学研究科(新制)設置および学位審査権付与を申請した。しかし、田辺通キャンパスにあった基礎系講座と、現在は市立博物館が建っている場所にあった附属病院及び臨床系講座が離れすぎていることなどが理由で認可されなかった。基礎と臨床の距離は300m以内が望ましいとされていた。

大波多廣文事務局長談
(1954(昭和29)年11月3日付け) )

 大学院を置く為に文部省の医学歯学委員会の決定に基づいて文部省春山順之輔大学課長、委員長の小池博士(千葉大学)、副委員長の阿部博士(慶応大学)の視察を受けたが、基礎と臨床の距離が離れすぎており、これでは一人前の完成された大学には出来ないと言われてしまった。

文部省医学視学官名大医学部長
戸苅近太郎教授談
(1955(昭和30)年2月25日付け)

 現在は学位審査権より大学院設置に重点を置かねばならぬ。市大の場合は基礎施設の充実が必要だし、又、教員数もたりない。研究費、図書費の年間予算、図書の数、雑誌の種類、バックナンバー等も不備である。学生数の定員過剰にはご注意願いたい。文部省としては将来の医学の方向として基礎、臨床の距離は300m以内がのぞましい。基礎館は名大経済学部跡に建て病院との間を地下道で連絡すると良いと思う。土地及び建築費は敷地を一部売却してあてればよいだろう。何れにしても基礎館建設は大学院設置に不可欠の要件だ。

 附属病院の敷地に基礎医学館を建てる余地はなく、病院から300m以内にそれを建てるには名古屋大学の桜山キャンパスを取得する外方法は無かった。実際、移転する予定の名古屋大学経済学部跡地を買取る要望は大学から名古屋市にその数年前から出されていたが、実現の見込みが立たない状況であった。

戸谷銀三郎学長談
(1954(昭和29)年11月3日付け)

 名大経済学部跡を買取るという話は、既に2,3年前には殆んど決定的となっていたが都合により駄目になってしまった。学位審査権の合格、不合格には一定の基準は定められていないとは云うものの病院と学校が近接場所にあるという事は絶対的なる必要条件だ。今の病院の敷地は四方道路に囲まれてしまっており、もうこれ以上拡げる事は不可能であるから、ここに建てる事は出来ない。

 

―基礎医学館建替は待ったなしの状況だった―

 桜山キャンパス取得の見込みが立たない中、当時基礎系講座が使っていた建物は老朽化が著しく建替が待ったなしの状況であったため、やむなく田辺通キャンパス内での基礎医学館建替が計画され、必要経費6千万円の内2千万円の予算が1954(昭和29)年度についた。ところが田辺通キャンパス図書館に隣接した場所で基礎医学館建設のため地質調査のボーリングが始められた段階で、文部省の春山順之輔大学課長から「名市大は将来構想実現のため,名大経済学部(桜山キャンパス)約2万坪(66,000㎡)を3億円で買収することを市当局にぜひ働きかけては。」との話があり、一縷の望みにかけて建替工事は中止された。しかし名古屋市当局に対する働きかけもむなしく、桜山キャンパス取得のための予算はなかなかつかなかった。しかも、市議会には、土地取得に成功した場合でもそれを分割し、瑞穂通沿いには商店街を、奥には住宅を作る計画があったのである。

鈴木脇蔵市会議長談
(1954(昭和29)年11月3日付け)

  学長、事務局長から直接話を聞いた。なんとかして市の方もあの2万坪を買いたいと思っているが、3億円(土地家屋共)をどうして作るか。小、中学校予算は市会を通過し易いが、一部子弟の学ぶ大学予算となると非常に困難で、市大の必理性を説く議員を多数獲得する事が必要で、私も議長の立場からくどいている所だ。2万坪を買い取っても、すべて市大にあげる事は出来ない。電車道(当時瑞穂通には路面電車が走っていた)は商店街、(奥の)運動場は住宅街としてやらなければ無理である。又、次にはすぐに校舎の事が問題となってくるからなかなかむつかしい。

大波多廣文事務局長談
(1954(昭和29)年11月3日付け)

  たとえ買い取る事が出来ても、学校として使用出来るのは2万坪の内ぎりぎり1万坪位だろう。

名古屋市曽我衛生局長談
(1955(昭和30)年2月25日付け)

  名大の敷地を商店街、アパート等に分割する話については、そうならぬ様に努めるが電車道の商店街だけは……。


―ついに桜山キャンパスを取得―

 しかしそうした努力が実を結ぶときがやって来た。大学からの再三の働きかけが功を奏し、1957(昭和32)年度予算に土地・建物取得費用として3億円の一部1億円がついて同年7月に国との間で覚書が交換された。そこから東山キャンパスでの経済学部棟建設が始まり、名大経済学部の移転が完了したのは1959(昭和34)年3月であった。また、将来発展するであろう名古屋市立大学に期待して、土地を分割する計画は市当局幹部の決断により取りやめとなった。そもそもの発端の基礎医学館については、既に予算もついていたことから名大経済学部の移転を待たずに桜山キャンパス奥の運動場部分で工事が始まり、第1期棟(生化学、生理学、薬理学、細菌学、衛生学、公衆衛生学)が1958(昭和33)年9月に完成している。その後1959(昭和34)年6月には第2期棟(解剖学、病理学、法医学)が、1961(昭和36)年3月には第3期棟(講義室、実習室)が完成した。同じく1961(昭和36)年3月に、文部省は名古屋大学の東山地区統合に協力した名古屋市の熱意と大学の計画性を理解し、整備、充実を確実に実施することを条件に大学院医学研究科を認可した。具体的には、①川澄キャンパスに新病院を建築し臨床と基礎の研究が同一場所で行われること、②アイソトープ研究室を設置すること、③新病院では中央手術室、中央臨床検査室を拡充すること、④臨床研究のための最新機械器具を一層整備すること、⑤講座研究費を増額すること、の5項目の改善事項が提示された。それを受けて教授会では具体的検討を行い、1962(昭和37)年末に附属病院移転改築計画をまとめ、1963(昭和38)年度予算から計上、4年計画で桜山キャンパス内に新病院が建築されることになった。文部省の出した条件は1966(昭和41)年11月の新病院(624床)開院と1969(昭和44)年3月の地下に放射性同位元素研究治療室(595.89㎡)を設備した臨床医学館完成でほぼ満たされたと言えよう。

図17
市大病院正面、右手の建物は名高商から引き継いだ物で、
動物実験室などに使われていた
(撮影は1975 (昭和50)年末頃)。

図18
基礎医学館(右手が1期棟、左手前が2期棟、その奥に3期棟)。左手前は共同研究室棟(1971(昭和46) 年完成:1F医学部事務、2,3F共同研究室、4F会議室)
(撮影は1975(昭和50)年末頃)。

図19
基礎医学館(右手が1期棟、左手前が2期棟)。
1期棟と2期棟の間の接続部分には学部長室や教授会が開かれた
会議室があったが、後に計算センターとして使われた(撮影は1975(昭和50)年末頃)。

図19
中央の建物は臨床医学研究館(1969(昭和44)年完成)、
左は病院南病棟、右に少しだけ写っているのが
共同研究室棟である(撮影は1975(昭和50)年末頃)。

図19
正面に旧図書館、右端に写っているベンチの右手に
現在図書館前にある戸谷初代学長像があった
(撮影は 1972(昭和47)年頃)。