名古屋市立大学の歴史

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第Ⅳ章 名古屋市立大学の発展

1. 医学部の発展

(1)川澄キャンパスへの移転

 医学部は、昭和25年(1950)の名古屋市立大学設立以来、基礎医学部門は瑞穂区田辺通(現、田辺通キャンパス)に、臨床医学部門と附属病院は瑞穂区瑞穂通(現、名古屋市博物館)に置かれていた。医学部および附属病院の川澄キャンパスへの移転は、昭和33年(1958)よりはじまるが、移転が実現する背景には、名古屋大学との土地建物の「交換」があった(12)。ここでは、『名大との交換建物関係綴』に残る関係資料にもとづき、医学部および附属病院の川澄キャンパス移転について述べる。なお、川澄キャンパスの取得については、本史所収の山本喜通「医学部75年の歴史の幕開けと桜山(川澄)キャンパスの成り立ち」に詳しく、そちらもあわせ参照されたい。
 川澄キャンパスの地は、もともと名古屋高等商業学校(1944年に名古屋経済専門学校と改称)を母体とする名古屋大学経済学部のキャンパス地であった。当時の名古屋大学は、名古屋市内およびその近郊に複数のキャンパスを持つタコ足状態であり、川澄キャンパスもそうしたキャンパスの一つであった。名古屋大学は、そうした状況を解消するため、いくつかのキャンパスを東山地区(現、名古屋大学東山キャンパス)に移転させる計画を進めるが、その中で、昭和32年(1957)7月、名古屋大学と名古屋市との間に「土地建物等の交換」に関する契約が結ばれた(13)。この時取り交わされた「覚書」および附帯条件の一部を以下に引用する。

①昭和32年7月31日付「覚書」(『名大との交換建物関係綴』所収)
 名古屋大学を甲とし、名古屋市を乙として甲、乙との間に、土地建物等の交換について次のように覚書を交換する。
第一条 甲は、国の所有する左記(イ)の物件と、乙の負担による建設する(ロ)の物件とを交換するものとする。

(イ)名古屋市瑞穂区瑞穂町字川澄地内
  土地  壱万九千九百四拾八坪四合四勺
  建物  延四千九拾弐坪五合九勺弐オ
  工作物及び樹木
(ロ)甲の指示により、乙が建築する建物及び附帯施設
(以下略)


②昭和32年7月31日付「名古屋市と名古屋大学との間に交わされた土地建物等交換覚書の附帯条件」(『名大との交換建物関係綴』所収)
一、 名古屋市の負担で建築する交換建物は名古屋大学整備計画中の経済学部、法学部の校舎及び学生寄宿舎並びに学生会館の一部とし、その建設建物の順序、位置、坪数、様式内部構造、附帯施設等は概算坪価格と睨合せて大学の希望を容れて設計建設するものとする。
   (中略)
一、 経済学部及び寄宿舎移転後の旧経済学部の物件は市立大学で使用することを認める。
   (以下略)

 引用部分から分かるように、「交換」の内容は、名古屋市が、名古屋大学経済学部の土地約19944坪(名古屋市瑞穂区瑞穂町字川澄)と附属の建物等を譲り受ける代わりに、東山地区に名古屋大学の経済学部と法学部の校舎、学生の寄宿舎、学生会館の一部を建設するというものであった。
 この「覚書」が取り交わされると、名古屋市はすぐに東山地区での建設にとりかかった。その結果、名古屋大学経済学部の移転は昭和34年(1959)3月に完了する。また、川澄キャンパスにおける本学医学部の基礎医学館の改築工事は、名古屋大学経済学部の移転を待たずに始められ、昭和33年(1958)9月に基礎医学南館(生化学、生理学、薬理学、細菌学、衛生学、公衆衛生学)の、翌34年6月に基礎医学北館(解剖学、病理学、法医学)の、また昭和36年(1961)3月には講義室と実習室の基礎医学館の改築工事が完了した。さらに昭和39年(1964)4月には、附属病院の新設工事もはじまり、同41年(1966)11月に新病院が完成、附属病院が移転した。看護学校の移転は少し遅れて昭和43年3月になるが、こうして、昭和33年に始まった医学部及び附属病院の川澄キャンパスへの移転は完了したのである(14)

(2)医学部附属病院の発展

 名古屋市立大学が成立した昭和25年時の附属病院は、第1内科・第2内科・第1外科・第2外科・整形外科・小児科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科・皮膚科・泌尿器科・神経科・放射線科・歯科の14の診療科を擁する病院であり、病床数は350床であった(15)。その後、昭和27年(1952)に病床数360床となった。
 昭和32年(1957)4月、それまで副病院長だった吉田義治が病院長に就任した。同年5月には病床数が390床に増え、さらに7月に総合病院として認可された。同36年(1961)12月には、病床数を増やして512床となった。
 昭和41年(1966)11月、新病院が完成したのを受け、附属病院は瑞穂区瑞穂通(現、名古屋市博物館)から川澄キャンパスに移転すると同時に、総合病院としての認可を受けた。新病院では、先述した14の診療科に、麻酔科が加わって15の診療科を擁し、病床数も624床に増え、より規模が大きくなった。また昭和44年(1969)3月にはRI病棟が開設され、10床が追加された。
 その後も病院の設備・診療体制は拡充していった。昭和44年7月に集中治療室(ICU)が設置されたのを皮切りに、昭和61年(1986)までに、人工腎室、リニアック(放射線治療装置)、分娩部、内視鏡室、病理解剖室、急性心臓疾患治療室(CCU)、医療情報部、新生児集中治療室(NICU)、管理部情報処理室が次々と設置されていった。また昭和53年(1978)4月、第3内科と脳神経外科の2診療科が増設、神経科が精神科に改正され、昭和57年(1982)に理学療法部をリハビリテーション部に、人工腎室を人工透析部に改正し、昭和61年9月には磁気共鳴診断装置(MRI)による診療が開始されるなど、診療体制も充実していった。昭和54(1979)3月には院内保育所も完成している(16)
 病床数のほうも、昭和56年(1981)5月に新棟増築工事が終了し、新たに280床が増え、計914床となった。ただし、昭和58年(1983)、結核病棟とRI病棟が廃止となり、病棟の再編成が行われ、病床数は計808床となる。
 このように、附属病院の設備・診療体制は順次充実していったが、こうした発展は平成の時代になってからも順調に進展しており、現在に至っている。

附属病院全景
附属病院全景

集中治療部
集中治療部

(3)大学院医学研究科の設置

 医学部には、昭和34年(1959)5月旧制の学位審査権が附与された。やがて大学院が設置されることとなった。「名古屋市立大学および前身校関係史料」の中に『名古屋市立大学大学院医学研究科設置認可申請書』(昭和35年)が現存する。分厚い申請書には、第二として「学則」を掲載し、名古屋市立大学に大学院をおき、医学研究科に博士課程、薬学研究科に修士課程を置くとし、学生の入学定員は医学研究科25名、薬学研究科(薬学専攻)9名としている。修学年限は医学研究科4年、薬学研究科2年としている。このうち医学研究科は生理系、病理系、社会医学系、内科系、外科系の5つの系からなり、入学定員はそれぞれ6名、3名、3名、6名、7名(計25名)であった。
 医学研究科博士課程の設置は翌年3月に認可され、昭和36年(1961)4月、医学研究科博士課程が成立した。なお、旧制の学位審査権は同年3月をもって廃止とされた。

(4)講座の増設

 昭和27年(1952)4月、戦後の学制改革に従い、医学部は新制の医学部として再出発し、そこで学部の整備充足と講座の新設が行われた。新制の医学部は、解剖学第1・第2講座、生理学講座、生化学講座、薬理学講座、病理学講座、細菌学講座、衛生学講座、内科第1・第2講座、外科第1・第2講座、整形外科学講座、産婦人科講座、小児科学講座、眼科学講座、耳鼻咽喉科学講座、皮膚科学講座、泌尿器科学講座、神経精神医学講座、放射線医学講座の計21講座で発足した。
 その後、諸々の講座が次第に増設、整備されていった。昭和32年(1957)には、病理学第2講座、生理学第2講座、公衆衛生学講座、法医学講座が、同41年(1966)には麻酔学講座が、同44年(1969)には医動物学講座が、同52年(1977)には内科学第3講座、脳神経外科学講座が新設された。
 さらに、同55年(1980)、生化学第2講座が新設され、これにより、待望の30講座となった。以後も順調に講座の増設が行なわれ、また再編成が行われた。
令和2年(2020)5月現在、医学部は以下の4専攻9講座となっている。

  • 生体機能・構造医学専攻   基礎医科学講座、病態外科学講座、感覚器・形成医学講座
  • 生体情報・機能制御医学専攻 病態医科学講座、社会復帰医学講座、生殖・遺伝医学講座
  • 生体防御・総合医学専攻   分子医学講座、生体総合医療学講座
  • 予防・社会医学専攻     医学教育・社会医学講座

 

(5)附属研究所の設置

 名古屋市立大学医学部には、附属病院のほか、「分子医学研究所」「実験動物教育研究センター」「不育症研究センター」などの附属研究所・センターが順次設置されていった。
 分子医学研究所は、昭和55年(1980)10月、従来の研究体制では遂行しえない研究分野をカバーするために新しい研究組織を検討する全学委員会が置かれ、川澄キャンパス内に大学附属研究所を設置する構想がまとめられたことに始まる。その後、研究所構想は進展し、昭和59年(1984)5月、分子医学研究所が設置された。あわせて、昭和60年(1985)年に開所されたRI(アイソトープ)研究室が平成4年(1992)10月に拡充された。
 令和元年(2019)10月、分子医学研究所は「脳神経科学研究所」に改組された。脳神経科学研究所は、脳神経科学領域における基礎研究を行ない、脳の細胞・神経回路の発達機構とその機能を解明し、脳神経疾患の解明と診断・予防法の研究、創薬・再生医療など治療法の研究に取り組んでいる。

脳神経科学研究所
脳神経科学研究所

 実験動物教育研究センターは、昭和45年(1970)3月に設置された医学部の実験動物共同飼育施設が改組・拡充されたもので、平成元年(1989)4月に「動物実験施設」に改称し、同4年(1992)11月に国内有数の設備を持った新動物実験施設が完成した。同9年(1997)5月、「実験動物教育研究センター」に改称した。
 不育症研究センターは、平成26年(2014)10月、不育症の研究と診療に取り組むセンターとして医学研究科に設置され、医学部のみならず、薬学部、看護学部、人文社会学部、経済学部からの支援を受けて運営している。平成27年度に文部科学省の共同利用・共同研究拠点「不育症・ヒト生殖メカニズム解明のための共同研究拠点」に認定され、同年から共同利用・共同研究の公募を開始した。

(6)大学院医学研究科修士課程の設置

 平成20年(2008)4月、大学院医学研究科に修士課程(入学定員10名)を設置した。これは、医科学の専門知識を有する職業人および博士課程への進学を目指す研究者を養成することを目的に置かれた課程である。入学者は、医療系学部出身者のみならず、サイエンスに関わる多分野にわたる学部の出身者であって、疾病の原因解明、治療法や予防策の探索、健康の増進などに関する教育研究が行なわれている。

(7)入学定員の増員

 新制の医学部医学科の設置当初の入学定員は40名、修業年限は4年であった。旧制の医学部までの時代は女子学生のみの入学であったが、新制の医学部からは男女共学となった。先にも述べたように、昭和30年(1955)4月、教養部が設置され、医学部は教養課程2年、専門課程4年の、6年制となった(入学定員は40名のまま)。昭和38年(1963)4月、医学部進学希望者の急増と医師不足を解消するため、医師の増員が求められ、入学定員は40名から60名に増員され、さらに昭和50年(1975)4月には80名に増員された。
 国は、昭和57年(1982)および平成9年(1997)の閣議決定で、医学部の入学定員を全国で7625人までに抑制する方針を定めた。しかしながら、まもなく医師不足が問題となり、特に地域によっては深刻であることが明確になった。国は、平成18年(2006)の「新医師確保総合対策」によって、医師不足が深刻である都道府県について医学部定員の10名増員を実施し、翌19年(2007)には「緊急医師確保対策」によって、全都道府県を対象に各5人などの入学定員の増員を実施した。これがいわゆる「地域枠」である。地域枠とは、地域医療に従事する意欲のある学生を対象として設定する入学者選抜枠(推薦入試枠)のことで、学生には奨学金の貸与(要件を満たせば返還免除)などの支援策がとられた。

医学部の実習の様子
医学部の実習の様子

 名古屋市立大学の医学部では、平成21年(2009)4月、入学定員が80名から92名(うち2名は臨時定員)に増員された。ここの臨時定員とは「地域の医師確保のために期限を付して増員した入学定員」のことである。さらに、同22年(2010)4月には、92名から95名(うち5名は臨時定員)に、同27年(2015)4月には、95名から97名(うち7名は臨時定員)に増員されて、現在に至っている。

参考文献
名古屋市立大学医学部同窓会『名古屋市立大学医学部創立40周年記念誌』1986年
神谷智『名大史ブックレット2 名古屋大学キャンパスの歴史1(学部編)』名古屋大学大学史資料室、2001年
「名古屋市立大学病院 沿革」(https://w3hosp.med.nagoya-cu.ac.jp/about/history/