名古屋市立大学の歴史

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第Ⅲ章 名古屋市立大学の総合大学化

1. 名古屋市立大学総合化計画

(1)名古屋市立大学総合化計画案

 ここで、名古屋市立大学のその後の発展について述べていく。「名古屋市立大学および前身校関係史料」の中に、『学部設置関係書綴』という書類綴があり、その中に名古屋市総務局総務課が作成した名古屋市立大学の総合化に関する書類や、総合化にともなう新学部設置要望書が綴じられている。これらの書類に基づき、総合大学化計画について紹介する。
 名古屋市立大学は、昭和25年(1950)の開学時から将来の総合大学化が期待されていたが、その動きが本格化するのは昭和30年代になってからである。昭和33年(1958)10月、名古屋商工会議所は、名古屋市立大学の総合化計画にともなって経営学部を新設することを、名古屋市長小林橘川に要望し、翌34年7月、再度の要望をした。さらに昭和36年(1961)10月には、工学部の新設も要望した。この時、名古屋市に提出された要望書のうち、二度目の経営学部新設の要望書と工学部新設の要望書が残っており、それらによると、経営学部の新設を要望する理由は、「高遠なる理論と企業経営の実態を適度に密着せしめて、これを修得し、本市の産業経済に寄与せんとする人士の養成の如何に緊要なるかを痛感」し、「本地方商工業の今後の発展に対処するため」であり(昭和34年7月1日「名古屋市立大学に経営学部新設万再要望の件(写)」)、工学部については、「南部臨海工業地帯の整備発展に伴い、重要産業の相次ぐ進出により、その産業構造は軽工業より、重化学工業へと高度化の一途を辿り、諸関連産業の増強と共にますます技術者不足の感を深くいたしており(中略)かゝる情勢に対処して技術者養成の機関を増強することが緊要である」からだとしている(昭和36年10月13日「名古屋市立大学工学部設置に関し要望の件(写)」)。
 名古屋商工会議所からの要望を受けた名古屋市は、昭和37年(1962)5月、名古屋市立大学総合化計画懇談会を開催して経営学部と工学部新設の意向を示し、名古屋市立大学の総合大学化が本格的に進められることになった。こうした経緯を経て、名古屋市総務局総務課が作成したのが、「名古屋市立大学総合化計画案」(年次不明。『学部設置関係書綴』所収)である。そこには、総合化の目的が次のように述べられている。

 産業経済の著るしい発展に同調し、企業の永続的な成長を確保するため、近時企業経営の改善特にその科学化、近代化が強調されており、また、めざましく進展する技術革新の時代に相応じ、科学技術及び理科教育振興の重要性が叫ばれ、現今これが専門的研究及び教育機関の整備拡充を要望する声がつよい。
 また、昭和38年度から昭和40年度にわたり高等学校進学志望者が激増するが、これらが大学進学時期に至るとき、国民生活の向上にともなう大学進学率のママ年上昇の傾向からみて、大学進学志望者の急激な増加が予想される。
 これらの情勢に鑑み、一大産業都市である本市として、医学及び薬学の両学部のみを有する市立大学を総合化し産業界の要望に応えるとともに、市民子弟の大学進学志望者の増加に対処し、もって本市の産業、教育、文化の向上に寄与せんとするものである。

こうした目的のもと、総合化の基本方針として、経営学部と工学部の新設計画が進められていった。なお、「名古屋市立大学総合化計画案」には「経営学部及び工学部を増設する理由」が3つ掲げている。それを以下に引用する。

  1. 近時企業経営の科学化が重要視されるようになり、近代経営学及びその隣接科学に関する教育研究が必要になってきている。また、本市産業の重化学工業化の趨勢に鑑み、最近の技術革新に対応する近代工業技術の振興をはかる必要がある。このため、これらの専門的な研究及び教育を行う経営学部及び工学部を増設する。
  2. 市内高等学校卒業生の大学志望者のうち、その約1/3が経済学関係学部を志望しており、同じく1/4が工学部を志望し、両学部志望で大学志望者の過半数を占めている事実から、これら市民子弟の要望にこたえる。
  3. 地元実業界及び市立大学総合化懇談会(37年5月14日開催)においても本市産業の振興上、経営学部及び工学部の設置を要望している。

(2)二学部の設置案

① 経営学部設置案

 ここでは、経営学部設置案について述べる。「名古屋市立大学総合化計画案」および「市立大学総合化全体計画」(年次不明。『学部設置関係書綴』所収)を見ると、経営学部は経営学科を有する1学部1学科制、学生定員は150名で、昭和39年(1964)4月に開設予定であったことが知られる。また校舎の場所については、第八高等学校の跡地(現、山の畑キャンパス)を使用する計画であった。しかし、この時点の第八高等学校跡地には名古屋大学教養部が置かれていたため、跡地の取得は名古屋大学教養部の東山地区移転後に行われることになっており、それまでは瑞穂区瑞穂町字川澄にあった旧名古屋大学経済学部の校地と校舎を暫定的に使用する計画となっていた(跡地の買収は昭和40年)。なお、第八高等学校跡地の取得については「2.経済学部の成立」で後述する。
 ところが、こうした経営学部案は、昭和38年(1963)3月までに経済学部案へと変更になり、昭和39年4月の経済学部開設に至ることになる。経済学部の設置については後述する。


② 工学部設置案

 次に工学部設置案であるが、「名古屋市立大学総合化計画案」および「市立大学総合化全体計画」によると、工学部は機械工学科・電気工学科・工業化学科の3学科を有する学部として、学生定員各学科40名の計120名で計画されていたことが知られる。また工学部の校舎場所については、薬学部がある瑞穂区田辺通(現、田辺通キャンパス)に置く計画であった。ただ、昭和38年3月5日「名古屋市会 会議録(定例会)抜萃」(『学部設置関係書綴』所収)によると、本学の総合化計画は経済学部の新設を第一に進めていたそうで、結局、工学部の設置計画は実現せずに終わった。