名古屋市立大学の歴史

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第Ⅵ章 看護学部の成立

2. 名古屋市立大学看護学校の時代

(1)川澄キャンパスへの移転

 昭和32年(1957)9月、名古屋市立大学附属高等厚生女学校は、「名古屋市立大学看護学校」に改名された。
 昭和41年(1966)11月、かねてより着工していた新病院が完成し、名古屋市立大学病院は現在地(瑞穂区瑞穂町字川澄1)に移転することになった。これにともなって、昭和42年6月、看護学校も同地に移転することになったが、看護学校の新校舎は着工が遅れており、完成したのは昭和43年(1968)3月であった。そのため、新校舎が完成するまでは、経済学部が昭和39年4月から同42年3月まで使用していた老朽校舎(旧名古屋高等商業学校校舎)を使用し、授業を行っていた。
 昭和43年3月、新校舎が完成した。5階建ての新校舎は新病院の東南の位置に建てられ、1階と2階が学校、3階から5階が学生の寄宿舎として利用された。

看護学校の新校舎(『名古屋市立大学20年の歩み』より)
看護学校の新校舎(『名古屋市立大学20年の歩み』より)

(2)新カリキュラム

 昭和43年4月、新校舎での授業がはじまるが、この年から、看護学校の入学定員は20名から30名に増員され、その教育も新カリキュラムによるものが実施されることになった。これについては、①昭和43年1月「名古屋市立大学看護学校の入学定員等変更に伴う学則変更ならびに校舎の各室の用途および面積変更申請(草案)」と、②昭和43年「名古屋市立大学看護学校の学則変更ならびに校舎の各室の用途および面積変更申請について(草案)」に詳しい。①②によると、入学定員の増加理由は、名古屋市立大学病院における看護婦不足に対応するためであり(看護婦不足は当時の全国的な状況)、新カリキュラムについては、昭和42年11月30日付で「保健婦助産婦看護婦学校養成所指定規則」の一部が改正され、教育内容の基準が変更したことにともなうものであった。また、新カリキュラムについては、次のようにある(①②ともに同文)。

 なお、科目は、改正後の指定規則別表3に準じているが、基礎科目として人文科学系の文学、宗教学を追加したのは、将来看護婦として必要な教養および豊かな人間性をよりよく涵養するためである。

 新カリキュラムでは、従来の基礎科目(物理学、化学、生物学、統計学、社会学、心理学、教育学、倫理学、音楽、外国語、体育)に「文学」と「宗教学」が追加され、人文科学系の科目をより充実させたことがわかる。この授業科目は、国の基準以上のものであり、看護学校がより高度な教育、より質の高い人材育成を目指していたことが窺える。

(3)別科(第二科)の設置

 ところで、この時期の日本では、看護婦の増員と夜勤制限を要求した「ニッパチ闘争」の拡大、さらに病床数の増加などにより、看護婦不足が全国的な社会問題となっていた。これは名古屋市立大学病院も例外ではなかった。こうした状況に対応するため、昭和43年に入学定員を30名に増加したことは先述した通りであるが、この動きはその後も続き、昭和45年(1970)4月には、入学定員を30名から40名に引き上げている。
 さらに翌46年(1971)には、准看護婦の資格(都道府県知事が発行する免許)を持つ人が働きながら学ぶことができる別科が新設された。別科は入学定員30名、修業年限3年(1~2年生は夜間開講、3年生は昼間の臨床実習、夏期・冬期休暇中は就業という2年課程夜間定時制)であり、入学資格は、①免許取得後3年以上業務に従事している准看護婦、②高等学校を卒業している准看護婦、このいずれかに該当する者であった(「学則」『名古屋市立大学看護学校別科設置承認申請書』所収)。この別科の設置によって、従来の3年課程が「第一科」、別科が「第二科」と呼ばれるようになり、この二科体制は、名古屋市立大学看護短期大学部に移行するまで続いていく。

(4)教育体制の充実

 別科設置による学生数の増加にともない、専任教員の数も増員され、教育体制がより整備・充実された。まず別科設置と同時に、教育主任2名、専任教員6名となり、昭和50年(1975)4月には、専任臨床指導教員3名が定員化され、長年の懸念であった臨床実習指導体制が強化された。さらに昭和52年(1977)8月、教務主幹職制が新設され、翌53年(1978)4月には、専任臨床指導教員が1名増員された。『名古屋市立大学看護学校30周年記念誌』によれば、昭和24年(1949)の名古屋女子医科大学附属高等厚生女学校が開校された当時は、専任教員3名(うち1名は事務長兼任)・学生数15名であったのが、昭和54年(1979)には専任教員13名・事務長以下職員6名・学生数213名となっており、看護学校の教育体制が着実に整備・充実されていったことがわかる。

(5)専修学校(専門課程)の認可と短期大学部への移行

 昭和51年(1976)4月、学校教育法第82号の8及び学校教育法の一部を改正する法律(昭和50年法律第59号)附則第2条第1項に基づき、看護学校は専修学校(専門課程)の認可を受けた(昭和53年3月12日起案「専修学校(専門課程)の設置認可申請について(案)」)。この頃、全国の認可校の多くが学校名の変更を行ったが、本学は変更せずに、短期大学部への移行まで「看護学校」という校名を使用し続けた。
 看護学校を閉校し、看護短期大学部を新設することが決まったのは昭和62年(1987)であるが、昭和40年(1965)には、すでに名古屋市に短期大学移行への予算要求が行われており、看護学校を短期大学部へ移行させる動きは、看護の質向上と看護学の発展に必要だとする考えから、早くより始まっていた。しかし、昭和40年の予算要求は実現せず、短期大学部への移行は、学校関係者の永年の念願になっていた。そうした中、昭和54年3月の名古屋市立大学整備計画において、短期大学構想が懸案整備事項として採り上げられ、また昭和57年(1982)の名古屋市の予算に、医療技術短期大学部創設のための調査費が計上された。さらに看護短期大学部創設に関する全学的調査検討機関として医療技術短期大学部設置検討委員会が発足し、ようやく短期大学構想が現実化したのである。そして、昭和60年(1985)6月、名古屋市議会において、名古屋市立大学看護学校と名古屋市立看護専門学校(昭和43年4月開校、千種区所在)を統合し、新たに名古屋市立大学看護短期大学部を設立することが了解され、昭和62年(1987)12月に設置が認可、翌年4月の開校に至る。
 看護短期大学部設置の決定により、看護学校は、昭和62年(1987)度に第二科の、昭和63年(1988)度に第一科の学生募集を停止し、平成2年3月、第一科最後の学生の卒業をもって、看護学校は発展的に閉校した。看護学校41年間の卒業生は、第一科が1018名、第二科が408名であった。看護短期大学部の設置にあたっては、当時、名古屋市立大学看護学校教務主幹であった山田重子氏の献身的な努力があったことを付言しておきたい。

参考文献
名古屋市立大学20年の歩み編集委員会編『名古屋市立大学20年の歩み』1970年
名古屋市立大学看護学校編『名古屋市立大学看護学校30周年記念誌』1980年
名古屋市立大学看護学校編『名古屋市立大学看護学校閉学記念誌』1990年
「看護学部・看護学研究科のあゆみ(沿革)」大学院看護学研究科・看護学部オリジナルサイト(https://www.nagoya-cu.ac.jp/nurse/guide/history/index.html