名古屋市立大学の歴史

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第Ⅰ章 前身校の歴史

2. 医学部の前身校

(1)名古屋市立女子高等医学専門学校

 医学部の前身である名古屋市立女子高等医学専門学校は、名古屋市民病院を母体として設立された。名古屋市民病院は昭和2年(1927)に市議会で建設が決まり、昭和6年(1931)7月に完成した。病院長には当時、満州の大連病院長であった戸谷銀三郎が「本市吏員最高給料額」(昭和五年十一月五日名古屋市長大岩勇夫書状による)の待遇で迎えられた。
 名古屋市民病院について、『名古屋市立大学20年の歩み』は、「昭和2年10月、本市に中産階級以下の者を対象とする軽費診療機関創立の機運が高まり、設置場所として南区瑞穂町小者田(現瑞穂区瑞穂通一丁目)に決定し、敷地16535㎡(5002坪)を確保(阿由知耕地整理組合から買収)し、次いで、外来棟及び病棟2棟を延9720㎡(2940坪)の規模で近代的コンクリート造、地上3階、地下1回建の総合病院を建築することになり、5ヵ年継続事業として総工費95万5600円を以て工事を行ない、昭和6年7月10日にめでたく完成、同月13日から診療を開始した。(中略)診療科としては9科(内科・外科・小児科・産婦人科・眼科・耳鼻咽喉科・皮膚泌尿器科・理学療法科・歯科)をもって出発した」と記している。病院を設立するや、「当時の市電の終点桜山電停(現市大病院)から病院玄関まで人の行列で切れまのないほどの盛況さで、1日当り800人を超える平均通院患者を算えた」という。

戸谷銀三郎宛ての手紙
戸谷銀三郎宛ての手紙

 また、当時の名古屋市には市立の大学がなく、教育の面で遅れをとっていた。さらに戦争の長期化によって医師不足が深刻化していた。それらをうけ、昭和16年(1941)秋に「女子医学専門学校並ニ附属病院設置ニ関スル意見書」が愛知県議会に提出されたが、具体化には至らなかった。
 昭和17年(1942)2月、戦時下の日本において、全国の医療統制を図るために国民医療法が制定された。これに基づいて、同年、「日本医療団」が設立された。国民医療法第三十一条には「日本医療団ノ資本金ハ一億円トス」とあり、同第三十三条には「勅命ヲ以テ定ムル者ハ勅命ノ定ムル所ニ依リ其ノ所有スル病院、診療所又ハ産院ノ設備及其ノ附属設備ヲ出資スルコトヲ得」とある。ここに定められたように、日本医療団を設立するための資本金一億円として、病院設備の現物出資が求められることとなった。この国民医療法施行令は勅令であったが、施行規則令は厚生省令であった。
 名古屋市民病院は、この日本医療団に現物出資として吸収、統合される心配があった。それを避けるにはどうすればよいのか。名古屋市民病院を管轄する名古屋市厚生局長の山口静夫は、恩師である京都帝国大学医学部衛生学教授の戸田正三(1885~1961、1945年より日本医療団総裁)に相談した。戸田は「医師養成の社会的要請を理由として、女子の医学専門学校を作って市民病院をその附属病院にすれば、国の管轄が文部省に移って厚生省には手が出せなくなるという秘策を伝授した」(3)。これをうけて協議した結果、五年制の名古屋市立女子高等医学専門学校が設立されることとなり、名古屋市議会で承認されたという(4)。名古屋市立女子高等医学専門学校は、昭和18年(1943)2月に生徒募集の公告がなされ、同年4月に開校した。これにより、名古屋市民病院は名古屋市立女子高等医学専門学校附属医院と改称され、名古屋市民病院の院長であった戸谷銀三郎が校長と院長を兼任した。
 名古屋市立大学桜山キャンパス本部棟4階ホール倉庫に保管される資料(「名古屋市立大学および前身校関係史料」)の中に、文部省が発給した市立女子高等医学専門学校設置認可の文書(写)がある。以下に引用する(大学史資料館にレプリカを展示)。

愛専四一号
 愛知県名古屋市
 昭和十七年十二月十一日申請名古屋市立女子高等医学専門学校を専門
 学校令ニ依リ設置スルノ件認可ス
      昭和十八年一月六日
         文部大臣 橋田邦彦

 名古屋市立女子高等医学専門学校の生徒は高等女学校卒業者が対象であり、合格者の出身校は全国、外地(台北など)にまでわたった。名古屋市立女子高等医学専門学校は当時、全国唯一の公立女子医専であり、その後に続く全国の女子医専の基盤となった。
 昭和18年12月、名古屋市立女子高等医学専門学校は「校歌制定ノ件報告」を名古屋市長宛に提出している。当時の校歌は以下の通りだった(振り仮名は( )内に記した)。
  
  一 八絋御稜威(あめのしたみいつ) 輝き
    御光(みひかり)に 映ゆる 学舎(まなびや)
    依り睦ぶ 幸(さち)よ 畏し
    たゆみなく いざ 勤(いそ)しまむ
    遠き わが 学びのつとめ
  二 拝(をろが)むや 熱田 大前(おほまへ)
    健(すく)よかに 精神(こころ) 浄らに
    聖旨(おほみねむ) 敦く 至誠(まこと)に
    捧げ持ち いざ 貫かむ
    重き わが 学びのつとめ
  三 南(みむなみ)に 北に また西
    大君の 宏き 御恵(みめぐみ)
    あひ分かつ 使命(ただめ) 負ひ承(う)け
    勇みたち いざ 践み行(ゆ)かむ
    尊(たか)き わが 学びのつとめ

 

(2)名古屋市立女子医学専門学校

 昭和18年(1943)4月に開校された同校は、太平洋戦争の激化により、翌年の昭和19年(1944)に修業年限が五年間から一年間短縮されて四年間へと変更された。「名古屋市立大学および前身校関係史料」の中に次のものがある。

発健第十号
   昭和十九年一月三十一日
       名古屋市長 佐藤正俊
  文部大臣 岡部長景 殿
    専門学校ノ名称学則等変更ノ件認可申請
緊迫セル現下の情勢ニ卽応センガタメニ昭和十八年一月六日附愛専四一号
ヲ以テ認可ヲ得専門学校令ニ依リ設置セル名古屋市立女子高等医学専門
学校ノ名称学則及生徒定員等左ノ通変更致度候ニ付特別ノ御詮議ヲ以
テ至急御認可相願度公立私立専門学校規則第一條第四項ニ依リ此段及申
請候也

 さらに、修業年数だけでなく、学校の名称や学則も変更され、「名古屋市立女子高等医学専門学校」から「名古屋市立女子医学専門学校」へと名称が変更された。生徒の収容定員も600名から480名へと変更された。また、五年制の名古屋市立女子高等医学専門学校に入学した第一期生も、カリキュラムを変更し、四年で卒業となった。
 この変更について、当時の新聞記事には以下のように報道された。

病院内に設けられた女子医専の教室
病院内に設けられた女子医専の教室
(『名古屋市立大学 20年の歩み』より)

毎日新聞 昭和十九年一月二十五日
 修業年限四年に短縮
 市立女子高等医専
決戦下医療陣の人的資源確保のため、市では昨年四月市民病院ならびに修業年限五年の市立女子高等医学専門学校を設立したが、文部省の指定にもとづき修業年限を四年に短縮、新学期の四月から実施する
 これによれば現在在学中のものも四ヶ年をもつて卒業とし、その教学内容を教化、入学資格は在来高女卒業であつたのを高女四年修業者とする

 戦時下で修業年限が四年となった名古屋市立女子医学専門学校は、昭和20年(1945)の終戦直後に五年制へと戻り、翌21年(1946)には四回生が入学することになる。
 戦後、学制改革が進展する中、昭和22年(1947)に全国の医専がA級かB級かに分けられ、B級とされたものは本年度限りで廃止、A級とされても昭和25(1950)に全生徒を卒業させて廃止となることが決定した。名古屋市立女子医学専門学校はA級と決定された。昭和23年(1948)3月、名古屋市立女子医学専門学校第一回生が卒業を迎えた。

名古屋市立女子医学専門学校の校舎
名古屋市立女子医学専門学校の校舎

(3)名古屋女子医科大学

 戦後の学制改革が進む中、戸谷銀三郎校長の尽力により、1947(昭和22)年に予科3年を含む名古屋女子医科大学(旧制)が設立された。
 昭和22年(1947)、文部省はA級医専と決定された全国の学校の中から15校に対して医科大学予科を開設するよう指示した。同年6月18日、名古屋女子医科大学予科の設置が認可された。予科入学定員40名、修業年限は3年であった。初代学長には戸谷銀三郎が就任した。この時、予科1・2・3年生が同時に募集された。名古屋市立女子医学専門学校の二・三・四回生も予科に応募した。そのため、昭和23年(1948)3月、名古屋市立女子医学専門学校第一回生の卒業式が行なわれるのと同時に、名古屋女子医科大学予科第一回生の修了式も行われた。予科の修了生は試験を経て名古屋女子医科大学へと進学した。

田辺通の教室での実習風景
田辺通の教室での実習風景
(『名古屋市立大学20年の歩み』より)

 「名古屋市立大学および前身校関係史料」の中に『名古屋女子医科大学設立認可申請書』(昭和二十二年二月 名古屋市)がある。その中の「一、名古屋市立女子医科大学設立理由書」の章には

今回医育制度刷新され、大学課程に統一、以って教育の完璧を期せられますは素より希求する所で、更に研究施設を拡充し、教育内容を強化し、殊に女子文化の開明を図り、以って国民の「健康で文化的な生活」の向上並に増進に寄与せんことを期するものであります。(中略)女子医科大学に昇格の儀を御許可になります様申請するものであります。(句読点を補った)

と記される。また、同史料の中に昭和22年(1947)の2枚の設計図が残る。一つは、「昭和二十二年二月七日」の日付を持つ「市立女子医科大学新設工事設計図」で、田辺通の地に建設される建物の設計図になっている。もう一つは、「昭和二十二年二月六日」日付を持つ「市立女子医科大学附属病院設計図」で、瑞穂区瑞穂通一丁目(現、名古屋市博物館)に建設される病院の設計図になっている(両者とも大学史資料館にレプリカを展示)。
 翌昭和23年(1948)4月、名古屋女子医科大学の医学部が開設された。入学定員40名、修業年限は4年であった。名古屋女子医科大学は旧制度の大学令による最初の女子大学となった。名古屋市立女子医学専門学校附属医院は、名古屋女子医科大学附属病院に改称された。
 昭和24年(1949)4月に新制大学が発足し、全国のほとんどの大学が男女共学を標榜した。同年10月28日、名古屋市議会は名古屋女子医科大学を名古屋市立大学へと改称し、名古屋薬科大学と統合することを議決した。名古屋薬科大学はすでに共学制をとっており、名古屋女子医科大学も共学化をすることになった。昭和25年(1950)4月、名古屋市立大学が正式に発足し、初代学長には戸谷銀三郎が就任した。
 昭和26年(1951)3月、名古屋市立女子医学専門学校第四回卒業式、名古屋市立女子医科大学第四回修了式が行われ、両者の閉校が告げられた。昭和27年(1952)3月、旧制名古屋市立大学医学部第一回卒業式が行われ、昭和30(1955)3月に旧制名古屋市立大学医学部第四回卒業式が行われ、旧制度による学生は全て卒業した。

参考文献
『厚生行政法規集』(1947年 厚生省大臣官房総務課)
『大東亜戦争以降経済関係法規集』(二)(1942-1943年 商工行政社)
名古屋市立大学20年の歩み編集委員会編『名古屋市立大学20年の歩み』1970年