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寄稿

名古屋市立保育短期大学閉学の頃

椙山女学園大学学長、名誉教授後藤 宗理

椙山女学園大学学長、名誉教授後藤 宗理

 1991(平成3)年に保育短大と女子短大とで四大化にかかる協議会(以下「四大化協」と略す)が発足した時点から1997(平成9)年に短大が閉学するまでを保育短大の教員の立場から記述し、四大化する過程での課題を明らかにし、どのように解決したか、あるいはその後名市大にどのように引き継がれたかをみていきたい。
 1991(平成3)年以前にそれぞれの短大で将来計画を検討してきた。両短大はいずれも約50年の歴史を有していたが、当時すでに受験生は減少傾向にあった。一方、名古屋市が2つの短大を別々に四年制大学に昇格させることは非現実的であること、また保育短大の校地が名古屋市外(尾張旭市平子町北59)にあったことが、単独昇格の障害でもあった。このような事情から四大化協を設置して、両短大の四大化を検討することになった。
 同じ時期(1991(平成3)年7月)に大学および短期大学設置基準の改訂があり、いわゆる設置基準の大綱化がみられた。あわせて保母養成所指定基準の改訂が行われた。つまりこの時期は高等教育政策の転換期であった。


 保育短大の収容定員をどう生かすか

 当時保育短大にある2学科(保育科・初等教育科)あわせて380名の収容定員を将来構想の定員にどのように組み込むかが問題であった。のちに名古屋市立大学教養部が将来計画を策定し、単独学部案を提出した時にも学生定員を持たない教養部の提案に対して疑問が残った。


 保育士養成課程の設置

 保育短大案は保育士(当時は「保母」)養成を完全に廃止することは考えておらず、その点が四大化協で女子短大と激しく対立した。保育士養成課程のイメージに齟齬があり、卒業必修の養成課程ではなく課程認定の養成課程で構想した。課程認定の養成課程になった点については、厚生省(当時)児童家庭課保育専門官が課程廃止に反対したこと、同窓会さわらびによる保育士養成課程存続署名活動などの影響が大きかった。一方、保育士養成専門学科にならなかったことによって転出した教員が出た。また幼稚園教員免許についての見通しは不明のままであった。


 校地(跡地)について

 名古屋市立大学への対等統合を前提に四大への作業は進められたが、保育短大にとっては尾張旭キャンパスを捨てて名古屋市内へ移転するという点で女子短大や教養部の四大化とは異なる意味を持った。とくに卒業生にとって自分たちの学び舎へ閉学後は立ち入ることもできず、最終的には尾張旭市に売却された。ただし、閉学前の1年間は新学部の1年生が入学してくるわけではなかったので、190名の学生と附属実習園(ふたば園)年長クラス20名だけの静かでゆったりした生活を送ったのである。


 全教員がそろって四大に移籍できるか

 1993(平成5)年7月から市立三大学の整備にかかる意見交換会(通称、意見交換会)がスタートし、学科の内容、カリキュラムなどが検討された。そのなかで在籍教員全員が短大から新学部へ移籍できることが必須条件であった。当初新学部への移籍についての理解には温度差があり、人事異動のような感覚で考えていた教員もいたが、新学部に所属するために大学設置審議会の教員審査を受けて合格する必要があることが伝えられ、業績づくりが要請された。また、カリキュラムと専門の不適合を回避する必要があった。それらを考えながら、カリキュラムと科目担当の調整が行われた。先に述べた大学設置基準の大綱化に伴い新しい教養教育の考え方が出てきた結果、主に教養教育を担当する教員も出たが、全員新学部(人文社会学部・芸術工学部)へ移籍することになった。ただ、短大に在籍した助手の処遇については課題が残った。


 助手の処遇

 女子短大と保育短大に何人かの助手が在籍していたが、教科に配置されている助手は学部カリキュラムの中に担当科目があれば、教員審査もなく移籍できた。一方、保育短大の助手は全員が附属実習園(ふたば園)の保育担当助手であったので、その処遇は一つの課題であった。最終的には勤務場所の廃止による任用替えという考えに立って、当事者一人ひとりの希望を聞いたうえで、4名いた助手のうち、最年少の助手1名は名古屋市保育園へ異動、ほかの3名は市大事務職員として任用替えをし、定年まで勤務した。


 所感

 振り返ってみると、意見交換会や新学部設立準備委員会及び各専門部会の多くが市役所あるいは名市大で開催された。したがって、保育短大の教職員はその都度尾張旭キャンパスから出張することになり、移動に多くの時間を取られただけでなく、在学生との交流の機会にも支障をきたすことになった。そのような状況からだれのための四大化かという声もあったようだが、その後の大学改革の流れを見ると、時代の先駆けであったことがわかる。また、臨時教育審議会答申や大学設置基準の大綱化など高等教育政策の変化に対応しつつ、その後にやってくる認証評価にも耐える改革であったと思う。個人的には大学改革の経験は自ら望んでできるものではなく、大学行政とりわけその後の公立大学法人化などに対応するうえで貴重な機会となった。
 閉学に至る5年間の最大の作業は、校地そのものを明け渡し、教職員が複数のキャンパスに分散し、校舎内のすべてのものを移管、廃棄することであった。このことの意味は振り返ってみると大きかったと思う。廃棄の過程で、四大化プロセスを検証するための資料(事務局保管の会議録、各種委員会記録)は、ほぼすべて処分された。市政資料館から資料提供の要請があったが、すでに処分された後であった。
 このような資料保存については当時考える余裕がなく、結果的には残念なことになった。本稿を執筆するにあたっては、閉学後しばらく手元に保管していた会議録を基に作成した開学から閉学までの記録を参照した。
 1997(平成9)年3月に開催された保育短大閉学記念式典において、筆者は「大学がなくなっても、保育短大という名前は保育にかかわる人たちや名古屋市民の間で50年後も記憶されていると思う」とあいさつしたが、それからすでに25年ほどたっている。

名古屋市立大学名誉教授
椙山女学園大学学長
後藤 宗理