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看護学部・看護学研究科のあゆみ


名古屋市立大学看護学部は全国的にも稀少な総合大学の中の看護学部として平成11年4月、生命と尊厳と権利の尊重を基盤とした人間理解を深め、社会の福祉に寄与すべく、自主的に行動することのできる看護職者の育成を目指して創設された。1学年定員80名、第一回の入学生は80名、うち男子学生2名に対し、専任教員は、教授10名、助教授10名、講師7名、助手13名が配置された。

ここでは、本看護学部の沿革として、その前身に当たる名古屋市立大学看護学校および名古屋市立大学看護短期大学部等の沿革から始める。

名古屋市民病院附属看護婦養成所 時代

名古屋市立大学看護学校の母体に当たる名古屋市民病院附属看護婦養成所は昭和6年7月に設置された。同看護婦養成所は、現在の名古屋市立大学病院の前身である名古屋市民病院が現在の名古屋市立博物館の地に昭和6年7月に開院したのに伴い設置された。同看護婦養成所の設置当初の入学資格は、15歳以上25歳以下の女子であり、高等小学校卒業または高等女学校2年以上の課程を修業した者で、入学定員20名、修業年限2年であった。昭和11年4月以降、一般教養科目の不足を補うため、修業年限3年に改定された。昭和18年4月名古屋市民病院が、名古屋市立女子医学専門学校附属医院と改称され、それに伴い、昭和18年4月に同看護婦養成所は名古屋市立女子高等医学専門学校附属医院附属看護婦養成所と改称、さらに昭和19年4月、名古屋市立女子医学専門学校附属医院附属看護婦養成所と改称された。昭和19年には戦時特例により、同看護婦養成所の修業年限3年が1年に短縮された。昭和20年終戦により、修業年限2年に改められた。昭和23年「保健婦助産婦看護婦法」制定により、昭和24年4月に新設された名古屋女子医科大学附属高等厚生女学校の設置をもって、いわゆる旧制度の看護婦養成所における教育は昭和25年3月に19年間の歴史を閉じた。同看護婦養成所における第1~18回の卒業生総数は352名であった。

名古屋女子医科大学附属高等厚生女学校 時代

戦後、わが国の看護制度は、連合軍総司令部の強力な指導によって改革された。昭和24年3月、総司令部カルソン女史、東海北陸民事部ハブル女史の来院により、名古屋市においても甲種看護婦学校新設をとの指導を受け、同年4月、名古屋女子医科大学附属高等厚生女学校の名称のもとに、入学定員20名、修業年限3年として開校し、昭和25年3月文部大臣より保健婦助産婦看護婦法第21条第1号の規定による甲種看護婦学校の指定を受けた。いわゆる新制度による看護教育であり、この年、全国で、同厚生女学校を含む17校が文部省よりその指定を受けた。特筆すべきは、それまで医師により看護教育がなされ、朝早くから徒弟制度的な実習があった状況から、初めて看護職による専任教員、教育主任を含め、3名が配置され、教育形態が整い始めた。同厚生女学校開校当時は、独立した校舎もなく、授業は旧名古屋市立大学病院の病室と旧名古屋市立大学医学部の教室で行われた。こうした教室を間借りする状態は、旧名古屋市立大学病院と同一敷地内に木造2階建の同厚生女学校校舎が完成する昭和26年8月まで続いた。

名古屋市立大学看護学校 時代

昭和25年4月、名古屋市立大学設置により、校名が名古屋市立大学附属高等厚生女学校と変更され、さらに、昭和32年9月には、名古屋市立大学看護学校と改められた。昭和41年11月名古屋市立大学病院が現在地(名古屋市瑞穂区瑞穂町字川澄一)に改築移転した。それに伴い、名古屋市立大学看護学校の校舎も同構内に改築され、昭和43年3月には、新病院の東南の位置に、5階建の新校舎(学校1~2階、看護学生の寄宿舎3~5階)が竣工した。同年4月、入学定員が20名から30名に増員され、修業年限3年、新カリキュラムの考え方による教育が開始された。昭和43年の指定規則改正当時の看護教育における考え方は、「看護学校教育課程の改正にともない、従来の技能的職業教育ではなく科学的専門職業教育を行うべく臨床実習を総時間数の2/3から1/2に濃縮し、基礎科目の科目数・時間数および基礎医学の時間数を増やす等、基礎学力の充実をはかり、科学的に考え行動できる人となるようにカリキュラムを編成した。」1)とある。
この頃より、いわゆるニッパチ闘争が全国的に拡がる一方、病床数も増加の一途をたどった。看護の質向上への期待とあわせ、看護婦不足は社会問題へと深刻化していった。名古屋市立大学病院も例外ではなく、その対策として、昭和45年4月には入学定員を30名から40名に増員した。さらに、昭和46年4月には、准看護婦の資格をもち働きながら学ぶ、第二科(1~2年生は夜間開講、3年生は昼間の臨床実習、ただし、夏期・冬期休業中は就業という2年課程夜間定時制)が併設された、入学定員30名、修業年限3年、学生総定員は一挙に210名となった。なお、この時期より従来の3年課程を第一科と呼称することとなった。同時に、教員定員が増員され、教育主任2名、専任教員6名となった。さらに、昭和50年4月、専任臨床指導教員3名が定員化され、長年の懸案であった臨床実習指導体制の強化が図られた。また、昭和52年8月には、教務主幹職制が新設され、続いて昭和53年4月専任臨床指導教員1名が増員される等、学校運営と併せて、徐々にではあったが、教育体制の整備がなされていった。昭和51年4月、名古屋市立大学看護学校は学校教育法に基づく専修学校専門課程の認可を受けた。この時期には多くの認可校が、校名変更を行った。その中にあって同校は従来の校名を変更することなく、名古屋市立大学看護短期大学部へ移行するまでその名称が存続された。昭和63年4月名古屋市立大学看護短期大学部の設置に伴い、名古屋市立大学看護学校第二科は昭和62年度から、第一科は昭和63年度から学生募集を停止し、昭和24年以来、41年間に渡る看護学校教育に終止符が打たれ、平成2年3月に第一科の最終卒業生を送り出し、閉校となった。同看護学校卒業生は、第一科(第1~39期生)1,018名、第二科(第1~16期生)408名、卒業生総数1,426名であった。

近年

昭和40~50年代にかけて、国公立の医療技術養成機関では、専修学校を短期大学に移行する傾向にあった。同看護学校においても短期大学への移行は看護の質の向上と看護学の発展のために不可欠であるという考えから、昭和40年度には名古屋市に短大移行への予算要求を始めたが、実現されず、その後の歴代校長、学校関係者の永年にわたる念願となっていた。昭和54年3月、名古屋市立大学整備計画において短期大学構想が懸案整備事項の一つとして提議され、昭和57年度の名古屋市の予算に医療技術短期大学部創設のための調査費が計上されるに至り、ようやく看護短期大学構想が現実化した。昭和57年4月に看護短期大学創設に関する全学的調査検討機関として、医療技術短期大学部設置検討委員会が発足した。名古屋市立大学学長を委員長に、短期大学部の基本構想が練られ、昭和60年6月、名古屋市議会において名古屋市立大学看護学校と名古屋市立看護専門学校(昭和43年4月開校)を統合し、名古屋市立大学看護短期大学部を設立することが了解された。昭和62年12月、同看護短期大学部は文部省の設置認可を受け、昭和63年4月、名古屋市立大学の併設校として、看護に関する高度な専門的知識及び技術を教授研究し、豊かな教養及び人格を備え、社会の保健医療の向上に寄与する人材を育成することを目的として、看護学科が設立された。入学定員100名、修業年限3年であり、専任教員の定員は、教授6名、助教授4名、講師6名、助手12名であった。平成3年4月には、名古屋市立大学看護短期大学部専攻科助産学専攻(入学定員15名、修業年限1年)が設置された。平成6年4月、専攻科助産学専攻は学位授与機構の認定を受けた。同看護短期大学部開設以来のこの10数年間は、日本における看護教育全体が見直される時期に当たり、名古屋市立大学看護短期大学部においても二度のカリキュラム改正が行われた。そうした中で、平成6年4月、四年制大学化検討小委員会が発足し、平成8年4月、名古屋市立大学看護学部(仮称)設立準備委員会が設立され、看護学部化に向けて大きく前進した。名古屋市立大学看護学部は平成10年12月に文部省より設置認可を受け、平成11年4月に設立された。
さらに、平成15年4月には大学院看護学研究科修士課程が開設され、平成17年4月の大学院看護学研究科博士後期課程の開設に伴って博士前期課程と改称された。また、平成20年度からは前期課程に助産学分野が追加され、助産師教育が学部から大学院に移った。 平成18年4月1日名古屋市立大学は公立大学法人名古屋市立大学として新たな一歩を踏み出した。

歴代の学部長・研究科長

  1. 平成11年4月~平成15年3月 小玉香津子教授
  2. 平成15年4月~平成19年3月 久米和興教授
  3. 平成19年4月~平成23年3月 山田紀代美教授
  4. 平成23年4月~平成27年3月 山本喜通教授
  5. 平成27年4月~平成29年3月 北川眞理子教授
  6. 平成29年4月~令和 3年3月 堀田法子教授
  7. 令和 3年 4月~令和 5年 3月 薊隆文教授
  8. 令和 5年 4月~ 明石 惠子教授