見る・聞く・知る 名市大

卒業生の声

先輩看護師の経験知を、 後輩に伝えるための研究。

電子カルテに対する危機感

日本赤十字社の看護師は、経験を積んだ後、日本赤十字社幹部看護婦研修所で教育担当者となるための教育課程を経て、同社の看護学校に配属され、後輩の指導に当たる。2005年にシステム自然科学研究科生体情報専攻(博士後期課程)を満期修了した杉浦美佐子さんは、看護師をめざす学生たちに看護過程(患者さんの状況を見て、どのようにケアしていくかを考えること)を指導していた。

杉浦美佐子さん

「1990年代後半、ちょうど病院に電子カルテが導入され始めた頃でした」。

電子カルテの導入は、紙が減る以上に、看護の現場に大きな変化をもたらした。システム会社の話によれば、電子カルテを使えば、患者さんのデータを入力するだけでコンピュータが標準的な看護計画をアウトプットしてくれるという。しかし当時の杉浦さんは、そこに疑問を感じていた。

「看護師は、病気や治療だけでなく、患者さんの生活や背景をみて判断し、個別の看護援助が提供できることが大切です。でも私は、電子カルテのコンピュータが事例ベース的に判断して個々の患者さんの看護計画を立案してくれるなら看護師の『考える力』を弱めてしまわないかという危機感を持っていました」。

それをシステム会社に言うと「では、看護師の思考を学習できるシステムを一緒に考えましょう」と提案され、杉浦さんは看護過程学習支援システムに関する論文を書き上げた。この論文に、本学でeラーニングを研究する磯本征雄教授(当時)が注目した。彼は、当時開設準備中だったシステム自然科学研究科の第一期生として学んでみないかと彼女を熱心に誘った。最初は「私の専門は看護学だから」と断った杉浦さんも、磯本教授から「情報をテーマに、多彩な専門家が集まるチームをつくりたい」と言われ、看護短期大学で働きながら、本学で研究を続ける決意をした。

研究・教育・子育ての日々

システム自然科学研究科には、教員はもちろん、学生もさまざまな分野で研究を行う人々が集う。そんな人たちと過ごす時間は、彼女にとって大きな刺激となった。

「看護過程の標準化と、個別の看護は対極にあるものではなく、コンピュータ等が提示する標準版では対応しきれないバリアンスを、看護師が経験を活かして個別に対応するのでは?という重要な示唆をいただいたのは、研究科の指導教官であった田島先生(現・教授)をはじめとした先生方でした」。

以来、看護師の経験と『標準化を達成しながら、かつ必要時には個別的な対応を保障する看護過程』とを結び付ける電子カルテが、彼女の研究の主テーマとなった。ここで彼女が着目したのが、クリティカルシンキングメソッド(論理的・構造的に考えているかをチェック(批判)しながら思考を進めていくこと)を使った新しい看護過程学習支援eラーニングシステムだった。

「看護師がどのデータをどう判断して生活体としての全体像を捉えて看護計画を立てたか、という思考の流れを自由にトレースできるシステムをつくろうと思ったんです」。

杉浦美佐子さん

言い方を変えれば、先輩の看護師が臨床現場で培った経験知を、後輩がそのまま追体験できるよう可視化したシステムである。

そして彼女の怒涛の日々が始まる。昼間は看護学生を指導する教育者であり、当時はまだ完成していなかった日本赤十字豊田看護大学の設置準備に奔走し、夜になって本学で研究をし、課題をこなす。自宅に戻って子育てをしながら明日の準備をする。長年、看護師として多重課題をこなす訓練をしてきた彼女だが、あまりの忙しさに病気になって入院し、教え子に看護されたこともある。

しかし彼女の頑張りは実を結び、看護過程学習支援システムは少しずつ形になっていった。これまでの学習教材として看護学生に与えられていたシミュレーション用のダミーの患者データでは、紙に文字主体で書き表されたPaper patientだったが、動画を用いることでリアルに伝わるようになった。

成長し続けるシステム

杉浦美佐子さん

本学のシステム自然科学研究科の博士後期課程の後も、彼女は看護過程学習支援システムの研究を続けた。そして2006年、この成果をまとめた論文「看護教育へのITの活用──アセスメント能力開発を重視した看護過程学習支援システム」で、彼女は同研究科出身者初の論文博士の学位を取得した。

「学位を取得したとき、当時の研究科長の森山先生(現・教授)から『これは足の裏の米粒だよ。意味は分かるね?』と言われました」。

足の裏の米粒は取らないと気持ち悪い。でも、取っても食べられない。博士の学位とはその程度で「本当のスタートはこれからだ」と、浮かれがちな自分を森山先生は戒めてくれたのだと彼女は理解している。

現在、このシステムは“カシスナップル”(Computer Assisted SYStem for NUrsing Process Learning)と命名され、日本赤十字豊田看護大学をはじめ、他の赤十字系教育機関でのeラーニングシステムとして利用されている。「おいしそうな名前でしょ?」と、杉浦さんは名前もお気に入りだ。

杉浦美佐子さん

今日、カシスナップルは学生のeラーニング用だけでなく、看護教員が臨床現場で経験した事例をアレンジして作成したシミュレーション教材用事例を書き込むデータベースとしても活用されている。こうして先輩の経験知が集約されれば、さまざまな患者さんに個別に対応する力を養うシステムになる。カシスナップルは今後ますます成長し、日本の看護師教育のスタンダードとなる可能性を秘めている。まだまだ彼女の忙しい日々は続きそうだ。

この忙しい日々を、彼女は少しも後悔していない。でも、彼女には一つ心残りがある。

「以前、学校で小児看護の授業を受け持っていた頃、学校では『子どもは、こうして寝かせましょう』なんて教えながら、自分は忙し過ぎて、自分の娘には学校で教えていることを少しも実行できていませんでした」。

それでも母の姿を見て育った3人の娘さんは、全員が母と同じ看護師の道を歩んでいるという。それは彼女にとって、どんな学位よりも嬉しいご褒美なのかも知れない。

プロフィール

杉浦美佐子さん
日本赤十字豊田看護大学 基礎看護学 教授
[略歴]
2005年 名古屋市立大学 大学院システム自然科学研究科 生体情報専攻 博士後期課程 単位取得後 退学
2013年4月より椙山女学園大学看護学部に勤務

システム自然科学研究科にはさまざまな分野の研究者が集まっているため、難しい課題が出ると、その分野の専門家が代表で課題を解き、みんなでノートを回した。毎晩遅くまで研究し、帰りはみんなでタクシーに乗り合わせて帰った。そんな毎日はとても楽しかった。一つ残念だったのは、大学院に入った時、みんな彼女を新入生の保護者だと思い、新入部員募集のチラシを一枚ももらえなかったこと。「特にショックだったのは、お世話になった田島先生が、ご自身の奥様より私の方が年上だとずっと信じていらっしゃったこと」とか。

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